街の復興を祝って賑わうシャノワールをあとに、わたしは一足先に自室へ戻った。
 電気を消したまま、月明かりだけでコーヒーを飲む。しんとした室内。沈黙がわたしに寄り添う。
 ―――ふいに。閉めていたはずの窓から風が入り込んだ。
 わたしはけれど、さして驚きもせず顔を上げる。
 予想通りのひとがそこにいた。

「……というか、普通にドアからでいいじゃないですか」
「こっちのほうが楽なんだよ」
「(どこがどう楽なんだ)……まあ、いいですけど」

 決戦後、まともに話すのはこれが初めてだ。
 けれどわたしたちのあいだの空気は、それ以前からなんら変わりなかった。

(…いや、)

 変わったのかもしれない。
 たぶん、わたしが。
 ロベリアさんが持ってきたワインボトルをテーブルに置く。わたしは黙ってキッチンからワイングラスをふたつ、出してきた。



 ふたり、並んでベッドに座る。
 ロベリアさんは窓から月を見上げ、わたしは隣でワインを飲む。

「わたし、ワインってほんとはあまり好きじゃないんですよね」
「おまえ、飲みながら言うことかよそれは」
「でもロベリアさんと飲むワインは好きです」

 半眼で振り向いたロベリアさんにそう続けると、数秒閉口して目を逸らした。

「ふん」

 不機嫌そうに鼻を鳴らす。照れてるんだろうか。
 何気なく横目で見やると冷たく睨まれた。照れてるらしい。

「ずっと思ってたんですけど、」

 どうせだから言ってやることにした。

「ロベリアさんは野良猫みたいですよね。…好きに生きて好きに死ぬような」

 思うように振る舞い、思うように死ぬ。
 実際がどうか、わたしには計れないけど、なんとなくそんな感じがした。
 そしてそんな自由さが、……ときどき、怖かった。
 たとえば、ロベリアさんの気持ちを正面から受け止め、懐に招いたとして。それで彼女を束縛できるわけじゃない。
 ロベリア・カルリーニという人間は、何者にも侵せない。
 わたしが決して入り込めない、絶対の領域がある。
 わたしには彼女がどのように生きるかを決定する権利はないし、同様に、どのように死ぬかにも口出しできない。

 喪うことが怖かった。

「…ばかか」
「そうですね」

 それを伝えると、呆れた声が返る。わたしは笑ってうなずいた。
 ―――結局のところ、わたしは。
 もうなにもなくしたくなかった。
 ただそれだけの話だった。

「ロベリアさん」
「あ?」
「わたし、ほしいものができたんです」
「……ほしいもの?」
「そのために、帝都に帰ります」

 数秒の沈黙のあと、「そうか」とひと言だけ、彼女は言った。

(情けない)

 小刻みに震える手を見下ろして、苦笑する。
 いまも、まだ、思い出すだけでこんなざまだ。
 もしかしたら戻ったとたん、みっともなく取り乱すかもしれない。
 それでも。

(もう逃げない。逃げないと、決めた)

 大切なものを手にすることに怯えていたら、いつまでも、ほしいものは手に入らない。
 それにきっと、もしもわたしが過去の痛みに呑まれそうになっても、助けてくれるひとたちがいる。
 突然消えたわたしのことを、それでも信じて待ってくれている。
 わたしはそんな彼女たちの信頼に、応えるべきだ。……応えたいと、思った。

「―――…」

 外から数台の車の音が聞こえた。ちょうどこのアパートの前で停まる。
 ロベリアさんが無言で立ち上がった。
 わたしに背を向け、ドアへ向かう。
 その、固い決意を秘めた背中に、わたしは最後の言葉を投げかけた。

「2年です」

 ぴたりと、ドアノブを掴もうとしていたロベリアさんの手が止まった。

「2年で、わたしは、わたしのほしいものを手に入れられる自分になって、ここへ戻ってきます。だから、」

 振り向かない彼女を見据え、言う。

「待っていてください」

 ぴんと見えない糸を張ったような、今までにない沈黙が降りる。
 ばたばたと階段を駆け上がる足音。それは確実にこちらへ向かってきている。
 ロベリアさんは、ノブを掴みかけた手を下ろし、振り返らずに言った。

「ああ、」

 その声は、震えていた。
 聞いたこともないような声だった。
 ロベリアさんはそして、泣くのを堪えているような、ひどく不安定な色を滲ませて、

「そのくらい、あっという間だ」

 まるで自分に言い聞かせるように、そう言った。
 深い呼吸のあとに、覚悟を決めたように彼女は顔を上げ、扉を開け放つ。
 ロベリアさんが部屋を出るのと同時に、廊下から野太い声が「いたぞ! ロベリア・カルリーニ!」怒声を上げる。確保、と叫ぶ声と、複数の靴音。閉められたドア越しに、わたしはそのすべてを聞いていた。
 泣きながら、聞いていた。

 そんなわたしを、月だけが、やさしく見守ってくれていた。



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up data 08/12/21