疲れきった身体を窓際に寄せながら、わたしはコーヒーをすすった。泥水のように苦いだけの液体が、疲れきったわたしの脳をほんのすこしだけ稼動させる。
 整備班のために用意された休憩室の一角。窓からはめちゃくちゃに破壊され尽くされた巴里の街が一望できる。遠くにそびえる巨木が、敵の居城。隊長さんたち花組の戦場となる場所だ。

 死んだはずの敵の復活。終わったはずの戦い。そこでなにが起こったのか、彼女たちは一切口にせず、下っ端であるわたしたちにはなんの情報も降りてこない。
 いつでも、上層の人間だけが真実を把握していて、わたしたちのような人間は、すべてが終わったあとに事実を知らされる。
 いまだって、―――あのときだって。
 口のなかにいつまでも残る苦味に顔をしかめたとき、背後のドアが開く音がした。


「関係者以外立ち入り禁止ですよ」

 わたしは一瞥もやらず言った。
 ロベリアさんは鼻を鳴らしてわたしの隣に立った。

「ここでなにしてるんですか」
「ひとりでのん気にコーヒーすすってるあんたに言われたくないね」
「やることは全部やりましたよ」
「あたしのやることはこれからだ」
「そのやること≠フために、身体を休めるのがいまあなたのやることなんじゃないですか」
「あいにく、あたしはそんなにヤワじゃないんでね」
「休んでもらわないと困ります」
「あん?」
「あなたたちに負けられると、わたしたちも終わりなんですよ」
「…困る理由はそれだけか?」

 ふいに、真剣になった彼女の声にも、わたしはやはり視線を固定したままだった。
 すると、隣で舌打ちする音が聞こえ、痛いくらいに強く肩を捕まれた。強引に振り向かせられて、わたしの視線とロベリアさんの視線が、そこで初めて絡み合う。
 予想に反して、彼女のまなざしは静かだった。
 凍てつくような鋭さも、燃え上がる激しさもない。湖水のような輝きに、わたしは一瞬呆然としてしまった。

「あんたあたしを疑ってるな?」
「……なんの話ですか」
「こっちを見ろ」

 逸らそうとした視線を、言葉だけで強いる彼女は、やはり強い。
 おもわず命令どおりに目を戻してしまったわたしを、ロベリアさんは軽く笑った。

「まあ、いい。あんたがあたしをいくら疑おうがかまわない。べつに信用されたいとは思わないからね。…けど、これだけはよく覚えときな」

 笑みはすぐに消えた。ロベリアさんの双眸が氷よりも冷たくわたしを突き刺す。低音の声が、わたしの耳元でささやいた。

「あたしは巴里の悪魔だ。欲しいものを手にするまでは、絶対に倒れない」

 いいね。―――念を押され、開放される。わたしは顔をあげられないまま、壁に背を預けた。
 ロベリアさんはそんなわたしをしばらく見下ろして、黙って部屋を出て行った。
 残された沈黙は、いつかとはちがい、ずしりとした重みを持っていた。その重みに押しつぶされるように、わたしの身体は壁に沿って床へとずり落ちる。
 わたしはゆっくりと目を閉じた。
 紅い月がちらついた。



「どうしてですか!?」

 司令室でその報告を直接に受けたわたしは、両手で彼の胸倉を掴んだ。見上げた彼の表情は、痛みを堪えているようだった。

「落ち着け、!」

 トップである米田さんの言葉も聞かず、わたしは彼に詰め寄りつづけた。

「どうして、どうしてあのひとが! こんなの、おかしいです!!」
「……」
「助けるって言ったじゃないですか! あやめさんはおれに任せろって、言ったじゃないですか!」
、やめなさい! 隊長は全力を尽くしたわ。いいえ、隊長だけじゃない。みんなせいいっぱいに戦ったのよ!」
「いいんだ、マリア」
「隊長…」

 止めに入ったマリアさんを、さえぎったのは、だれでもない彼だった。
 ひどく苦しげに、それでも目を逸らさない彼に、わたしは苛立った。

「絶対に帰ってくるって―――絶対に連れて戻るって、言ったのはあなたでしょう!?」
「……すまない」
「あやめさんを助けるって、言ったじゃないですか!!」
「すまない、くん」
「わたしはそれを信じた! あなたを信じた! 華撃団を変えたあなたを信じた! それなのに、…それなのにっ!」
「いい加減にしろっ、!!」
「―――ッ」

 感情の奔流に押されるままだったわたしを止めたのは、米田さんだった。
 司令室の外にも響くような大声で、室内は一転して静まり返った。

「…大事なもん、すべてを護りてぇって想いは、だれもが持ってる。けどな、」

 深い、静かな声が言った。

「それを実現できるほど、人間の手のひらはでかくねぇのよ」

 それまでだった。
 彼を―――歯を食いしばり悲しみを押し殺す大神一郎を責めることなど、もうできなかった。



 目を開くと休憩室の床だった。窓外にはまだ月があるから、寝入ってからそう時間は経っていない。
 わたしは身を起こし、壁に背をくっつけて虚空を見上げた。
 すべてを護ろうなんて高い志は持っていなかった。ただひとつ。彼女の笑った顔が見たいと、それだけだった。
 それさえできないわたしに、生きている意味はあるのかと、何度も自問した。

(それでも生きつづけてきたのは、きっと、)

 あのひとに愛された記憶が、この脳裏にしっかりと刻みつけられているせいだ。
 ひざを立てて、額をそこに置く。ロベリアさんの声が響いた。

巴里の悪魔は、欲しいものを手にするまで倒れない

 それならわたしは、一生彼女の望みを叶えないでいたい。
 もうなにも喪いたくはなかった。



back menu next
---------------------------
up data 08/04/28