気づかなかったわけじゃない。 確信は持てなかったけれど、そうかもしれないとは思っていた。 彼女がひとと馴れ合うのを嫌う性格だということは知っていた。ひととの接触を極力避けていることも。 だから、彼女がわざわざ自分から、他人のところへ出向くのは、理由、もしくは意味がある。 もちろん、自分の安全なねぐらがあるのに、わたしのところへ来ることにも。 ちょっとしたところにもその気配はあった。 たとえば、わたしが仕事に集中していると妙に不機嫌になったりとか、気まぐれを装って触れてきたりとか、ときおり視線を投げかけてきたりとか。 ただ、彼女はいまのところなにかする気もないようだし、わたしもわたしで自分のことでいっぱいいっぱいだったから、放っておいたのだ。 正直に言おう。わたしはロベリアさんに、甘えていた。 だからいい加減ロベリアさんがキレてこういう行動に出たとしても、それはわたしが悪いんだけど。 (なんか、違和感) 傍若無人に見えて自分の流儀はきっちり守るロベリアさんが、こんな短絡的な手段に出るだろうか。 その気のない相手に無理強いするようなひとではないと思うんだけど…。 さっきまでパニック寸前だったわたしの頭は、すっかり冷静になっていた。その頭で思考する。ロベリアさんがこんな行動を取ったわけ。 そして、ひとつの仮説にたどり着いた。 (…あー。なんか、どのみち自業自得だな、これ) ロベリアさんが怒って当然だ。 わたしは自分自身に胸中で嘆息しながら、仮説を立証すべく口を開いた。 「あやめさん」 ぴくりと、ロベリアさんの肩が跳ねた。 立証はほぼされたと同然だ。 それにしても、あの孤高のノラがやきもちとは。わたしはどうもロベリアさんを誤解していたみたいだ。 彼女は巴里の悪魔で、大悪党で、そしてどこまでも人間だった。 「寝言、ですか」 「…ちっ」 ようやく、ロベリアさんも冷静さを取り戻したのだろう。わたしを解放してベッド脇に乱暴に腰掛けた。 わたしから顔を背けて、黙っている。 わたしはゆっくりと起き上がった。 気まずい沈黙が降りる。ロベリアさんの不機嫌な横顔には、「こんなつもりじゃなかった」という心情が大きく書かれていた。 わたしはそれを見て、なぜかとても落ち着いてしまった。ロベリアさんから目を離し、窓の向こうを見る。 ロベリアさんはそこから入ってきたのだろう、開かれた窓の外には、丸い月がぽっかりと浮かんでいた。 「―――紅い月の夜でした」 ぽつり、ぽつりと、わたしは話した。 藤枝あやめというひとの話。わたしは、生い立ちはいろいろあったけど、育ちはまあ、どこにでもある、普通の環境だったと思う。 降魔とのあの大戦中、わたしは彼女を心底案じた。恋人が失踪して落ち込んだ彼女を、なすすべもなくただ見ているしかなかった。それでも気丈に振舞う彼女にあこがれた。彼女の役に立ちたくて、勉強した。 そして念願叶って彼女の部下となり、―――彼女を、喪った。 母のように、姉のように、ときに友のようにあったあやめさんを、わたしは、救うことも守ることもできずに。 「だれもが喪失から立ち直ろうと戦っている中、わたしだけはだめだった。こころが折れて、痛みに耐え切れず逃げ出したんです。その先が、巴里だった」 そこかしこに散らばる思い出が、わたしを責め苛んだ。なぜおまえはあやめさんを助けられなかったのか。なぜおまえはそんなにも無力なのか。 霊力のないわたしができることを探して踏み入ったこの道は、けれどあやめさんを救うことはできなかった。 彼は彼なりに、自分の答えを見つけたようだけど。 わたしはいつまでも、歩けずにいる。 「…くだらないな」 舌打ちが聞こえて、そんなふうに吐き捨てられた。 月からロベリアさんに視線を移す。ロベリアさんは、湖の底のような静かなまなざしで、わたしを見つめていた。 「あんたはそれをあたしに話してどうしてほしいんだよ?」 「…さあ。ただ、聞きたいのかと思って」 「ばーか」 鼻で笑って一蹴された。 細い冷たい指先が、わたしのあごをつかんで、強引に上向かせる。 「あたしが欲しいのは、そんな昔話じゃない。あんただよ、」 ロベリアさんの氷のような双眸は、おもしろがるように細められている。もうすっかりいつもの調子に戻った彼女に、わたしはなぜか安堵して、笑ってしまった。 とたんにロベリアさんが眉をしかめる。 「なに笑ってんだよ」 「いえ、なんでも」 「…ふん」 穏やかな気分だった。こんな気持ちになったのは、いつ以来だろう。 わたしはもう一度、声を出さず笑って、ロベリアさんに告げた。 もうすこしだけ、待ってほしいと。 ロベリアさんは、うなずく代わりに、やさしい沈黙をくれた。 |