今日はめずらしく早く帰れた。 といっても、すでに時間は9時を回っているが、これでも整備班にとってはめずらしいことだ。 いや、整備班、とひとくくりにすると、グラン・マに怒られるな。 巴里は日本とちがって自分の時間というものに非常にこだわる。整備班だって、多忙ではあるが、仕事と休みはきっちりしている。 つまりわたしが働きすぎだ、ということだ。グラン・マにさんざん注意されているが、いまだに直らないわたしの癖。グラン・マやメルたちに言わせると、悪癖、らしい。仕事中毒だとののしられた経験もある。さすがにそれはひどい。 (ここに来た当初よりは、だいぶ改善されてると思うけどなぁ) あのころは、なにも思い出さないためにがむしゃらに働いていた。 そのことを知ったグラン・マが、監督責任だと班長を叱っていたと、あとで聞いて驚いた。 でも、仕事量にしてみれば、帝都にいたころの1割り増しくらいだけど。しかしそれを言ったら、なんだかグラン・マは米田さんに怒鳴り込みそうなので黙っている。 わたしはシャワーを浴びてから遅い夕食を食べ、ベッドにもぐりこんだ。 そういえば、今日もロベリアさんは来ないんだろうか。 彼女の家(厳密には部屋)はシャノワールだし、べつにいいんだけど。 今朝感じた違和感―――さみしさを思い出し、わたしはまた苦笑した。いつのまにやら、わたしはだいぶあのノラ猫に感情移入しているようだ。 わたしは毛布をかぶりなおし、目を閉じた。 夢を見ていた。 やさしくて暖かい、なつかしい夢だった。 それはわたしが、まだ日本にいたころのこと。 花やしき支部に配属されたばかりのわたしは、張り切って仕事をしていた。 女のくせにという目もあったし、大変だったけど、楽しくてやりがいがあった。 だからつい無理をして、疲れからか熱を出して倒れてしまったのだ。 まったく恥ずかしいことだ。体調管理もできなくては、プロフェッショナルとはいえない。 周りに迷惑をかけてしまったことが情けなくて、熱もあってかわたしは布団の中で声を殺して泣いていた。 そのときだった。 「…大丈夫?」 ひんやりとしたやわらかい手が、わたしの額に当てられた。 「ああ、こんなに熱が…無理をするからよ」 「…あ…」 あやめさんは、当時のわたしの上司であり、そして、わたしの保護者でもあった。 両親を早くに亡くしたわたしは、親戚をたらいまわしにされ、血もつながっていないような藤枝家に引き取られた。 藤枝のひとたちはやさしかった。とくにその姉妹、あやめさんとかえでさんは、わたしをほんとうの妹のようにかわいがり、慈しんでくれた。わたしもまた、彼女たちを慕っていた。 そしてわたしはいつのまにか、あやめさんに強く憧れ、惹かれていた。 「泣いているの? どこか痛いところでもある?」 「……い、え…」 「そう? なにか欲しいものは? してほしいことは?」 「…傍に…」 「え?」 「いて、ください。ここに…」 「…えぇ」 頬を撫でられた。冷たい指だった。気持ちよさにうっとりしながら、わたしは彼女の名前を呼んだ。 「あやめ、さん…」 その瞬間、世界が暗転した。 「―――っ!?」 目を見開いて、最初に見えたのは氷のような瞳。 「ロ…ッ? こほっ」 息苦しさに咳き込む。 胸倉をつかまれている。とっさに襟元のロベリアさんの両腕に手をかけるが、あっさりと引き剥がされ、ベッドに押さえ込まれる。 死と隣り合わせに生きてきたロベリアさんと、一介の整備士のわたしでは、話にならない。わたしはあっさりと身動きを封じられ、ロベリアさんの冷たい、凍てつくようなまなざしにさらされることになった。 「なにを…!?」 ロベリアさんは黙ってわたしを見下ろしていた。その双眸に宿るのは、蒼い炎。静かに燃え上がる、激しいなにか。 彼女の目が、ゆっくりと、わたしの顔から下へ降りていく。その視線の意味を悟り、背筋を冷たいものが走った。 「ロベリア、さん…?」 冗談だと彼女が笑うのを、待った。けれどいつまで経っても、それはなかった。 真っ暗な部屋の中で、圧倒的な力を持つ相手に取り押さえられ、わたしはパニックを起こしそうになる自分を、ただ押しとどめるほかなかった。 |