「…この時期になにを言っているんですか」 「そうだね。だから、この戦いが終わったら」 日本に一度、帰ってみよう。 隊長さんの誘いに、わたしはただ、黙ってうつむいた。 「くん。つらいのは、よくわかる。忘れたいというきみの気持ち…おれも、否定できない」 「……」 「だけどきっと…このままじゃいけない。きみがいつまでも引きずったままじゃ……あのひとだって、悲しむさ」 脳裏に、やさしい微笑がよぎった。 母のようにやさしく、姉のようにきびしいひとだった。 いつもわたしたちを見守ってくれて、落ち込んだときは励まし、失敗したときは丁寧に叱って、導いてくれた。 やさしい、やさしい、ひとだった。 「……くん」 「…わかって、ます。だけど…」 ひとは常に、忘れながら生きる。 それは記憶に限ったことではない。 痛み。悲しみ。苦しみ。怒り。感情や感覚を、時間とともに風化させて、そしてようやくひとは生きることができる。 ひとは、弱い。だから、生きるためには、忘れるということができなくてはいけない。 わたしはそれが、生まれつきできない人間だった。 あらゆる感覚を覚えている。母の胎内にいたときから、いまにいたるまでのありとあらゆる経験を、この脳とこころは覚えている。 あの日の、ことも。 寒気のするようなきれいな満月。黒と紅が彩る夜だった。 あのひとは、いなくなった。 ひとでないモノとなって、敵としてわたしたちの前に立ちはだかった。 わたしはそれを、モニター越しに見ていた。ぬくもりを失ったまなざしと、嘲りと悪意を持った微笑。 ―――あやめさんは、いなくなった。 「すこし、考えさせてください」 「くん…」 「お願いします」 「……わかった」 隊長さんは「紅茶おいしかったよ」と言い残して、部屋を出て行った。 わたしは動けずに、ただじっと、そこに座っていた。 翌日、わたしは寒さに震えて目が覚めた。起き上がって伸びをして、違和感に気がつく。 ロベリアさんがいない。 からっぽの隣。無意識に空けていた空間には、だれも寝ていなかった。 (…なんだ) 昨夜は彼女、来なかったのか。なぜかため息が出た。 鳥のさえずりを聞きながら、起き上がる。朝食をとって、着替えて、報告書をかばんにしまって、それから……。 ふと目についたのは、テーブルに置きっぱなしの手紙。かわいらしい封筒を手にとった。きれいな文字。覚えている。これは、さくらの字だ。 おてんばなくせに女の子らしいことはきちんとできるひとだった。 (あのドジは変わってないのかな) くすりと笑いが漏れて、驚いた。 わたしは、笑えるのか。あのころを思い出して、ちゃんと。 痛みはけっして忘れられない。けれどこうやって、時間が経てば癒えていくものが、たしかにある。 ならばこの、傷跡のように残る悲しみも、やがて消えるときが来るのだろうか。 わたしは手紙を、机の引き出しにそっとしまった。 忘れ物がないことを確認して、玄関へ向かう。電気を消す間際、なにげなく部屋を振り返って、立ち止まった。 だれもいない部屋が、妙に寒々しかった。いつもなら二度寝をはじめる銀色のノラがいるはずなのに。 (―――さみしい?) ふいに湧き上がった感情に、笑った。 なにをばかなことを。たかだかノラ一匹がいないくらいで。 ここ最近毎日だったから、すこし感覚が狂っているだけだ。この部屋にだれかがいること自体が、おかしなことのわけで。 わたしはずっとひとりだった。巴里に来てからずっとそういうふうに過ごしてきた。さみしさなんて感じないほどに、ひとりに慣れていた。 (それは、どうして?) 考えて、笑ってしまった。 ああ、そうだ。 仲間との縁を断ち切って、ひとりで巴里に来て、ひとりで生活をして。それは全部、あの日の記憶を封印するためだった。 だれかが傍にいると、思い出してしまう。あのひとに甘え、あのひとにあこがれた、かつての自分を。あの日の記憶を。 忘れられないならせめて、思い出さないように。 そんなふうにわたしは暮らしてきた。暮らさなければいけなかった。 (でも、……) わたしは机の引き出しを一瞥してから、電気を消して外へ出た。 封が切られないままの手紙は、けれどたしかに、わたしに変化をもたらしていた。 |