その日カルラは、月明かりの下を兵舎へと急いでいた。抱えている酒は、新人のカルラに先輩たちが命じたものだ。カルラはそれを抱えなおして、足を速めた。
 ディンガル軍に入って半年が経った。繰り返される訓練の日々は、味気ないものだった。才能があるなどと周囲はもてはやすが、どうでもいいことだった。
 笑うことを覚えた。陽気にふるまうすべを見つけた。無邪気にすればそれだけ相手は油断する。そのことに気づいた。でも、それだけだ。
 カルラの思うような笑顔≠、カルラはまだ見つけられなかった。
 どんなに楽しんでいても、どこかで冷めていた。
 まるで、世界から色がすべて抜け落ちたような毎日だった。
 ふと、カルラは顔を上げた。進行方向から物音がしたのだ。だれかがもみ合っているような気配に、カルラは足を止める。不審に思い覗き込んだカルラの目に飛び込んできたのは、どう見ても尋常ではない様子だった。
 男に両手を拘束され、地面に仰向けに倒された少女。もう1人の男がその少女の両足を押さえつけている。
 それを見た瞬間、カルラは頭の芯が凍てつくのを感じた。
 強者が笑い、弱者が泣く。
 その現実をだれよりも憎むカルラにとって、目の前のそれは怒りを爆発させるのに充分なものだった。
 殺そう。
 感慨もなくそう思う。荷物を置き、腰を落とす。手は剣の柄へ。習ったとおりの動作だ。カルラは見習い兵士になって間もない。ひとを殺したこともない。だが、ふしぎとためらいは感じなかった。
 そうして、カルラが剣を抜きかけた、そのときだった。

「がああああああ!!??」

 突如、闇を引き裂くような叫び声が響いた。
 少女に乱暴しようとしていたほうの男が、口を抑え2、3歩後退り、その場にうずくまる。少女を取り押さえていたほうの男は、目を白黒させながら彼に声をかけた。

「お、おいどうしたんだ?」
「が、がああ、ああああああ!!!」

 びしゃあ。男が嘔吐する。嘔吐だと思った。カルラも、もう一方の男も。だが違った。とたんに周囲に充満したそれは、紛れもなく―――血のにおい。
 いまだわけがわからず狼狽するばかりの男。カルラも頭がついていかず、その場に立ち尽くした。
 いや、わかっている。認識した。理性は。だが感情が追いつかない。なにをした。この少女は、自分に乱暴を働こうとした男に、なにを。
 自分のくちびるを無理やりこじ開け侵入してきたそれを、あの少女は、

(…かみ、きった)

 少女は(少女を拘束しているほうの)男の隙を突き束縛から逃れると、ころげるようにしながら立ち上がる。そして、うずくまっているもう一方の男の目の前に、自身の口のなかのものを吐き出して見せた。それはちいさな肉片だった。それを見て、男が裏返った悲鳴をあげる。

「お、オおォ、オエええおぉォぉ!?」
「ざまあみやがれ…!」

 嘲るように少女が笑った。その瞬間、カルラの全身に震えが走った。それはまるで、喜びのようだった。
 ようやく我に返ったもう片方の男が、怒りの形相で懐のナイフを取り出そうとする。しかし、それはたやすくさえぎられた。カルラによって。

「あ、がっ…!」

 うめく男の喉から短剣を引き抜いた。鮮血が噴き、カルラの服を、身体を汚していく。男の目から、徐々に光りが失われるのを、カルラはじっと見つめていた。
 そして、彼の身体は地面に倒れ、二度と動くことはなかった。
 振り返ると、舌を噛み切られた男も、うつぶせに倒れて痙攣している。ほうっておけば死ぬだろう。助けるつもりは毛頭なかった。
 カルラは汚物を見るような目で彼らを一瞥し、それから少女を見やった。
 少女はぼんやりとカルラを見つめ返すと、おもむろに顔をうつむけ、

「うっ…おぇええええっ、げぇぇぇ! うぇっ」

 吐いた。それはもうためらいなく。
 血のにおいと嘔吐のにおいが混ざり合い、その場はなんとも言えないものになってしまう。
 思う存分に吐き散らかす少女を見つめながら、カルラは言葉にできない気持ちを感じていた。
 胸の奥がざわめいていた。こんなふうに感情が動くことなど、久しくなかった。底冷えするような憎しみ以外で、カルラのこころが揺れるなんて。
 知りたい。無力な身でありながら、強者に抗って見せたこの少女を、もっと。
 味気なかったカルラの日々に、ほんのわずかの変化が起こった夜だった。


の守り手

Act.05  世界に革命


(なんでいまこんなこと思い出すのかな)

 カルラは全速力でウマを走らせながら、口端を引いた。まったく、これではまるで自分がもう二度と帰れないみたいじゃないか。こんなに弱気になるのは、胸のうちの、ぬぐってもぬぐい切れない予感のせいだろうか。
 弱い自分は大嫌いなのに。

、いまごろどうしてんのかな)

 追ってくるなと伝言をした相手を思う。彼女のことだ。あいかわらず魔法の研究に勤しんでいることだろう。
 は変わらない。ずっと変わらなかった。きっとこれからも。

(あたしがいなくなっても?)

 また弱気な考えがよぎった。カルラは舌打ちしてそれを振り払う。

「カルラさま?」

 部下のひとりがいぶかしげにするのに、「なんでもない」と慣れた笑顔を作ってみせた。とにかく、やれることをやるしかない。この乾いた日々を、偽物の笑顔を、色のない世界を変えるために。カルラは前方を見据えた。
 目指すは、アルノートゥン。



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up data 07/11/19