通常、学校の教室というものは30人前後の生徒を収容するだけのスペースを持っており、それは逆に言えばそれ以上はないということだ。それは教室に限らず、たとえばスーパーやコンサートホール、東京ドームでさえ収容人数には限度がある。 物理的な意味でも常識的な意味でも無限の空間というものは存在しえず、もしも存在するならばそれは現実とは異なる空間となる。で、あるならば、今現在たちが立っているこの場所は、まさしくその異空間なるものなのだろう。 「ふ。ふふふふ。なんでいつもいつもこうなるんだろうねぇー」 壁も出入り口もない、ただ机と椅子だけが並ぶ果てしない空間。その中央――かどうかさえもわからないが――に立ち尽くして、はうつろに笑った。 もしもこの世に運命の神さまがいるなら、見つけ次第即刻解雇を申し渡す。 がそう心に決めた瞬間、後ろから気配がした。 「ちゃん?」 聞き覚えのある声だった。 は振り返り、絶句する。 (…訂正) 解雇ではなくリンチにする。
第4話 つないだ手のひら(1)
事の起こりは1時間ほど前になる。 その日学校から戻ったは、もう毎回となった晩餐会in八神家に出席してその後帰宅(宿題があるからと言って出たのだが次は宿題も持って来いと言われた、そろそろ同居生活になりそうだ)。 そして学校の宿題をしていると、インターホンが鳴った。 『はいはい、どちらさんですかー?』 「聞こえてねっつの。…はい、どちらさまですか?」 寂しがりやにして構われたがりの中年男というなんともうっとうしいことこの上ない属性の幽霊を押しのけて(娘を置いてなにをしているのか)、インターホンの受話器を取る。 すると、帽子を目深にかぶった男が、小さな画面に映し出された。 「――亀急便でーす=v 男が応答した瞬間、の表情が引きつった。 『…?』「…今行きます」 怪訝そうなおじさんを置いて、は玄関へ向かった。その足取りがひどく重そうに見えたのは、おじさんの目の錯覚だろうか。 ほどなくして戻ってきたの手にはさっき男が持っていた小箱。一辺10cmほどの立方体のそれは、様子からしてとても軽そうだ。 しかしながら、贈り物にしてはの顔色がすぐれないので、おじさんは首をひねって問いかけた。 『だれからや?』 「…父さん」 ますますわからなくなった。 父親からの贈り物ならここは喜ぶべきところであろうものなのに、はとてつもなく気が重そうにしてそれをテーブルに置く。 その所作が不自然なくらい慎重なことに、ますます疑問符を浮かべまくるおじさん。 リビングの空気が地球並みに重かった。 『なんや、まるで爆発物でも扱うみたいやなぁ』 「……ふ」 無理やりひねり出した明るい声は、ニヒルな笑みに叩き落とされた。 八神家の(元)大黒柱は、頬をひくつかせる。 『ははは、は……まさかやろ?』 「……父さんに電話しないと」 『な、なんで?』 「中身の確認」 幽鬼のようにふらりと立ち上がったは、そのまま2階へ行ってしまった。残されたおじさんは、テーブルの上の小箱を見やると、すすす、と数歩そこから距離を取る。 小箱はただただそこに鎮座していた。 それからしばらくして、が戻ってきた。しかし顔色はさらに悪くなっている。いったい何事かと問いかければ、一言。 「携帯忘れた」 『…どこに?』 「たぶん、学校」 はテーブルを見やると、そこに小箱があるのを確認して、地の底に届きそうなくらい深いため息をついた。 『あー…ほんなら、そっちの電話でええんやないの?』 「父さんに繋がるのは携帯しかないんだよ」 『なんで?』「そういう仕様」『…はあ…』 さっぱりわからない答えだった。 とりあえずに父親の職業を問いただしたい。夢とロマンの詰まった仕事が危険物にどう繋がるのかも含めて。 はしばらく頭を抱えていたが(比ゆではなく実際にそうだった)、気を取り直して手近にあった半そでの上着を着込んだ。 『?』 「ちょっと学校まで行ってくる」 『えぇ? この時間にか?』 「一晩正体のわからないものとひとつ屋根の下なんて、安眠できん」 『…安眠できんものを送ってくる父親ってどうなんやろ』 おじさんのツッコミは全力でスルーして、は玄関へ向かった。 その先に待ち受けるものなど、知る由もなく。 さて。 夜中の学校に忘れ物を取りに行くに当たって、当然ぶつかる問題は、どうやって中に侵入するか、だ。 出入り口は当たり前に鍵がかかっているし、警備員が一時間ごとに見回りを行っている。 ここは素直に警備員に話して入らせてもらうのが一番なのだが。 「めんどい」 のこのひと言で、手段は決定された。すなわち、 『…なんでピッキングなんてスキルを持ってるんや』 ということだった。 現在8時を回った学校の廊下は、明かりなどもちろんない暗がりで、月明かりを頼りに歩くしかないのだが、の歩調は昼間とまったく変わらない。 そして足音は、猫もびっくりのサイレントモードだ。いったいどれだけ日常生活に不要なスキルを持っているのだろう。 それがの本意でないことは、おじさんの問いかけに答える彼女の顔つきから理解できるが。 は心底いやそうに、唇をゆがめて返答した。 「父さんに仕込まれた」 『…ほんま、きみの父親ってなにしとるんや』 年齢2桁にも届かないこの子どもは、職員用玄関のドアをあっさり開いてしまった。ものの数秒のことである。 しかも道具は彼女がいつもつけているヘアピン1本である。もしやこのために常備しているのかと疑いたくなるあざやかさでもって、少女は学校内に進入した。 日本の将来がとても心配だ。 「…げ」 そんなおじさんの危惧を知ったことかといわんばかりに歩いていたは、ふいに顔をゆがめて立ち止まると、即座にUターンをした。 『?』 怪訝なおじさんの声に振り向きもせず、近くの階段脇の奥まった場所に身を潜める。 小走りながら見事な消音ぶりである。 なんだなんだとついていったおじさんの耳に靴音が飛び込んできたのはそれから数秒もしないうちだった。 白い光が廊下を照らす。それはの隠れている場所を一瞬通り過ぎると、そのまま靴音とともに遠のいていった。 は少ししてから、階段脇から姿を現した。 『……これもお父さんの仕込みなん?』 「………………間接的には」 それがどういう意味なのか激しく気にはなったが、力なくうなだれる少女を見てこれ以上の追及はやめておこうと思うおじさんだった。 それからの教室までは、何事もなく行くことができた。 巡回が1時間ごとだとは知っていたし(なぜ知っているのかは不明)、さっきの警備員をやり過ごしたことで、ある程度余裕を持って移動できた。 は自分の机の引き出しを漁ると、すぐに携帯を見つけ出した。 「じゃ、帰ろっか」 『大丈夫か? 警備員と鉢合わせたりせえへん?』 「ああ、大丈夫だよ。だって―――」 はぴっ、と教室の窓を指差した。 「―――あそこから出ればすぐじゃん」 『…靴をそのまま持ってきたんはそのためか』 のベルトに吊り下げられたスニーカーを見やって、おじさんは嘆息した。 普段から平穏マンセーと言っているわりには、やることなすことどうにも日常から逸脱しているのは育った環境のせいか生まれ持った素質のせいか。 どちらにせよ指摘しても全力否定が返ってくるのは目に見えているので、おじさんは黙っておくことにした。 はそんなおじさんに気づきもせず、窓のほうへ向かう。かかっていた鍵を開けると、夜風が吹き込んできた。 そして結び付けている靴紐をほどこうとベルトに手をかけたところで、の動きが止まった。 『? どうし―――ッ!!』 ふしぎに思ったおじさんが声をかけようとしたとき、異変はふたりを飲み込んだ。 そして話は冒頭へ繋がる。 |