赤い信号。目の前を通り過ぎる車。立ち止まった背中。空白。冷たいまなざし。拒絶された手。

 せみが鳴いていた。



虹 の 向 こ う

03.眩暈



 黄色いリボンで髪をむすんだ女の子が、両親の手をにぎって笑っている。
 楽しげな声が駅のホームにひびき渡る。
 は沈んでいた思考を戻し、彼ら家族から目を離した。

 土曜の午後、授業を終えてしばらく学校に残っていたせいで、周りにリリアンの生徒は見当たらない。
 アナウンスが、電車が遅れていると告げる。そのあとを追いかけるように、女の子の笑い声があがる。
 その光景がうっとうしくて、目を閉じた。

 いつも、長い爪にちがう色のマニキュアを、塗っていたのをおぼえている。
 きれいな色だった。
 香水はどこかのブランドのもので、は、それは好きじゃなかった。
 きらきらと光る指輪にあこがれた。
 口紅は赤よりオレンジが好きなようだった。
 声を聞いたのは数回ほどだ。最後に話したのはいつだったか。
 最後の一瞬まで、あのひとはにひと言もくれず、振り返ることなく出ていった。

 両親にどんな事情があったのか、は知らない。物心ついたころにはもう、に家族はいなかった。
 父とも母とも、話したことがほとんどない。
 彼らはに興味がないのだと思う。いまも、名義だけは父のものである家に、ひとりで住んでいる。

 ほしいものは手に入らない。

さん」

 倦怠感を滲ませた声が背中にかかる。は肩越しに振り返り、声の主を見やった。
 トレードマークの黄色いバンダナが見える。江利子だった。

「どうしたの?」
「…いきなりなに?」
「ぼーっとしているから。もしかして、飛び込むつもり?」
「だとしたら?」
「私、早く帰りたいから、つぎの電車はやめてちょうだい」
「……」

 友情なんて単語は、江利子にとっては宇宙の彼方らしい。
 それでも彼女なりに心配していることを見て取って、はわずかに目を細めた。
 江利子は軽く肩をすくめて、の隣に立った。

「それはそうと、さん。あまり蓉子を心配させないでくれる?」
「…江利子さんは蓉子さんが好きだね」
「そうじゃないわよ」

 心底面倒くさそうに、江利子は言う。

「蓉子がうるさいのよ。近頃、あなたの様子が変だって」

 言われて、は納得した。
 最近の蓉子の自分を見る目は、たしかにすこしちがっている。
 あれは、自分を心配していたからか。

「―――うれしそうね」
「…え?」
「笑っているわよ」

 指摘されて、は自分の頬に手を当てる。

「……そう?」
「自覚がないのが、いちばんたちが悪いわ」

 ため息混じりに言われては、も黙るしかなかった。
 鳥居江利子と知り合ったのは、もうだいぶ前のことだ。
 なにしろおたがい幼稚舎からリリアンなのだから、おなじクラスになることもたびたびあった。

 彼女がとても頭がよく、目端が利くこともはよく知っていた。
 だから、彼女に自分の蓉子への想いを言い当てられたときも、特別驚くことはなかった。
 けれどたまに、その存在がひどく邪魔に思うことがある。それは、

「そんなに好きなら、言えばいいのに」

 ―――こういうときだ。
 胃のなかが煮えるような気持ちを飲み込んで、は口端を吊り上げた。

「なんで」
「伝えれば、蓉子だって考えるでしょう」

 江利子の言わんとしていることは、よくわかっていた。
 結局、どうしたって不毛なだけなのだ。いまの、この状態は。
 は想いを捨てきることなんてできないし、彼女はきっと言わなければずっとわからない。わかるわけがない。
 彼女はのことを、友だちだと思っているのだから。

「わたしは、いいよ」
「…そんな顔して言っても、説得力ゼロよ」

 蓉子が向けてくる感情は、どこまでいってもただ友情でしかない。
 それは純粋であればあるほどに、を傷つける。

「どうせもう、限界でしょう」

 告げる言葉が、憎い。
 ぐらりと視界が傾いて、は強く目を瞑った。
 閉じた瞼の裏に、黄色いリボンが揺れていた。

「…大丈夫だよ」
「……」

 だってもう、にはわかってしまっていた。
 自分には、選べる道なんてないことを。


□□□
 一度だけ、手を伸ばしたことがある。夏の暑い日のことだった。
 理由はおぼえていないけれど、その日は、生まれて初めて母と一緒に歩いていた。
 学校の帰りだったと思う。そのころはまだ初等科で、かばんを背負っていた。
 帽子のつばからそっと覗いた母の横顔は、きれいだった。

 会話はない。なにか話したくて、でも、なにを話せばいいのかわからなくて、は黙って母のあとを追いかけた。
 長い爪に塗られた黄色いマニキュアが、ちらちらと視界をちらつく。
 きれいな色だと思った。

 赤信号で母が立ち止まる。ようやく追いついたは、息を切らせながらそのひとを見上げた。
 心臓が、波打つ。
 夏の暑さとはちがう、緊張で熱を持った手が、じっとりと汗で濡れている。
 スカートのすそでそれを拭いて、はその手を―――…。


□□□
 なにかをたたくような音で目が覚めた。
 見慣れた天井をしばらく見つめてから、は身体を起こした。
 真っ暗な部屋を見回す。時計の針は、がベッドに入ってから2時間ほど進んでいた。

 額を手で押さえて、ため息をつく。
 耳の奥に、あのいやな音がまだ残っていた。
 右手の甲が痛むような気がして、見下ろした。

(気のせいだ)

 あれからもう、何年が経っていると思う?
 自分に問いかける。こぼれ落ちるほどの時間を、過ごしていた。
 それなのに、いまだに見てしまう。
 長い爪。香水。まなざし。痛み。無言。
 いったいいつになったら忘れられるのか。あの、冷たい記憶を。悲しい音を。
 いつになったら。

(…いつまでも?)

 は、哂う。そうかもしれないと、思った。
 いつまでも、ずっと引きずりつづけるのかもしれない。

(この感情と一緒に、ずっと…)

 胸に手を押し当てて、目を閉じる。蓉子の顔が浮かんだ。
 彼女を焦がれるこの想いは、焼けつくような痛みをともなって、をひたすら追いつめる。
 それはあの日途切れた母への想いに似ていた。
 この感情が消える日なんて、来るのだろうか。こんな、鮮やかな色を見せつけられて、それを忘れることなんて、できるのか。

 ―――私はそれをばかだなんて思わない=B

 できない。あの日、あのとき、蓉子のそのひと言で、できなくなってしまった。

(ほんとうはね、蓉子さん、)

 あの日ぜんぶ終わらせようと思っていたんだよ。―――胸のうちの彼女へと告げる。
 手に入らないものを求める愚かさを、一緒に哂ってほしかった。
 それなのに、あなたは、

(どこまでも、どこまでも、わたしをひたすら惹きつける)

 は背中を丸めて、立てたひざに額を置いた。
 こんな想いを抱えて歩く道の遠さに、眩暈がした。



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up data 07/02/04