葉の色が濃くなっていくのを見て、やるせなくなった。 時間はどうしたって流れていく。まして巻き戻すことなんてできるはずもなかった。 だから、あの日に戻れたら、なんて思いは、願うだけ無駄なのだ。 虹 の 向 こ う 04.決意
「お姉さま?」 祥子の声で、蓉子はわれに返った。 「あ…えぇ、なにかしら?」 「…お姉さま、いったいどうなさったんですか? 近頃、なんだか様子が…」 「なんでもないわ。ちょっと調子がよくないだけ」 蓉子は軽く首を振って、ほほえんだ。 納得のいかない様子の祥子に気づかないふりをして、蓉子は手元の書類に目を落とした。 (さん…) ここ最近、蓉子は彼女のことを考えている。 会いたいと思う。話したいと。彼女の顔が見たい。いまなにをしているだろう。 いつかの微笑を思い出す。大丈夫だよ≠ニ言って、傷ついたような目をして笑っていた。 そんな顔をしないでと、言いたかった。言えなかったのは、言えば彼女がなおさら遠くへ行ってしまうとわかっていたから。 はいつも、自分と線を引いていた。 彼女は蓉子になにも言わない。彼女はだれにもなにも言わない。 蓉子が近づけばその分だけ遠く離れる。蓉子が見つめればその視線から、話せばその言葉から、逃げるように距離を置く。 手の届きそうなところに、届かないように立つ彼女が、もどかしかった。 そんな蓉子が、に、彼女のこころのいちばん奥、やわらかな場所を見せられたとき、どうしようもなく惹きつけられたのは、必然だったのかもしれない。 薔薇の館をあとにした蓉子は、頬を撫でる風に気づいて顔をあげた。 さわさわとゆれる緑の葉を見て、いつだったか、がこのくらいの季節の風が、いちばん好きだと言っていたのを思い出す。 ―――ふいに、泣きたくなった。 どうして、こんなことになってしまったのだろう。 知らなければよかった。気づかなければよかった。同性への恋なんて。 けれど気がつけば、彼女のことばかり考えている。それを友だちだからと言えていた、あのときに戻れたら。 けれど時間は戻せない。この感情をなかったことにすることも、叶わない。友情だとごまかすことも、いまさら。 ならば待つしかないのだろうか。 木々の葉がいつか枯れ落ちるように、この恋が消えていくのを、ただ耐えて待つしかないのだろうか。 「水野」 物思う蓉子を、そのとき、1人の男性の声が呼び止めた。 蓉子がはっとしてそちらを振り返ると、見慣れた教師のすがたがあった。 「すこし、いいかな?」 彼がのクラスの担任であったことを思い出すのに、さほど時間はかからなかった。 □□□ なぜかむかしから、を探し出すのは得意だった。 もともと勘がいいのもあるだろうけれど、彼女がいまどうしたいのか、どこに行きたいのか、考えると自然と答えが出ていた。 今日も、そうだ。 空き教室の扉を開けると、は窓の外をじっと見つめていた。 グラウンドから運動部のかけ声がする。まだ日は高い。振り返る彼女のすがたが、いつかの日に重なって見えて、蓉子はおもわず目を伏せた。 「さん」 は振り向いたままの姿勢で、瞬きをする。その様子はいつもと変わらない。変わったのは、蓉子の心境だけだ。 後ろ手に扉を閉めて、蓉子はゆっくりとした足取りでに近づいた。 隣に立って、とおなじように窓外を見やる。陸上部の部員たちがトラックを駆け抜けるのが見えた。 「…なにかあった?」 横からの声に、蓉子は目をあげた。の双眸が、まっすぐに蓉子を捉えている。 こんなふうにひとを見つめるは、めずらしい。いつもどこか逃げるように、視線を合わせないひとなのに。 こういうときだけ、こちらを見つめてくる。 ずるいと、思った。 「なにかあったのは、あなたのほうでしょう?」 苛立ちから、おもわず口が動いていた。 はそれだけで察してしまったのか、微苦笑を見せた。 蓉子はくちびるを噛んだ。もどかしくてたまらない。 彼女が話さないのも、隠すのも、ぜんぶ彼女の意志だ。自分がどうこう言う問題ではない。それはわかっている。けれど、くやしい。 「あなたはいつも、なにも言わない。それは、あなたの自由よ。でも、悲しいの」 「わたしは、大丈夫だよ」 「大丈夫じゃないでしょう」 「……」 「大丈夫じゃ、ないのよ」 そんな目をしていては、笑ってみせても無駄だ。 そんな、悲しむような目をしていては。 はそれでもほほえんだまま、蓉子を見つめていた。 「ずっと前から、わかっていたことだから」 「…どういうこと?」 「いつか来ることだと思っていた。あのひとたちはほんとうに、もうずっと、だめだったから」 静かな声が、言う。悲しいことを、当然のように。 「だから、大丈夫だよ。わかっていたことだから、」 「それでも、悲しいことに変わりはないでしょう」 あなたが傷ついていることに変わりはない。―――蓉子の言葉に、は困ったように眉を下げた。 ああ、また、あなたは逃げるのか。 指のあいだからこぼれ落ちそうになるものをすくおうと、蓉子は続けた。 「さんは、どうしていつも、ひとりでいようとするの?」 首をかしげるに、さらに言葉を募らせる。 「あなたはそうやって、いつもなにかをあきらめる」 すとんと、なにかが胸に落ちた。自分で言ってから、ようやくわかった。の浮いた存在感のわけが、その正体が。 (このひとは、ぜんぶ、あきらめてしまっているんだ) 自分が望むもの、ほしいものを、このひとはすべて投げ出してしまっている。 諦念と失望。それが虚無となってを取り囲んでいる。 悲しい。とても、悲しい。 そんなふうにしか、生きてこられなかったのだろうか。 そんなふうにするしか、生きるすべがなかったのだろうか。 「もっと、望んだっていいじゃない。ほしがったっていい」 「―――それは、できない」 はくしゃりと顔をゆがめて言った。あの夏の日とおなじ、微笑のような、泣いているような表情。 「できないよ…」 涙はない。けれど彼女は、たしかに泣いていた。 滲んだ声が「できない」と繰り返し言う。 「どうして?」 「困らせるだけだ」 「そんなのわからないわ」 「わかるよ。わたしのほしいものは、ほしがってはいけないものだから」 「だけどあなたはほしいんでしょう? 望むものがあるんでしょう? だったら求めていいじゃない。求めていけない理由なんてあるの?」 蓉子の問いに、は苦い笑みを見せる。 「あなたはいつもそうやって、わたしの逃げ道をふさいでく」 いつも≠ニいう言葉の意味はわからなかったが、それでも蓉子は言い募った。 「どうして、逃げるの?」 「……」 「どうして、ほしがってはいけないの?」 は答えず、蓉子の視線から逃げるように、目を伏せる。 「望んではいけない理由なんて、ある?」 一語一語、言い聞かせるようにゆっくりと言いながら、の顔を覗き込んだ。 彼女の瞳は、揺れていた。迷うように、あるいは、惑うように。 きれいだと思った。ほんとうはいつも、見つめるたびにそう思っていた。 それが恋だった。 「あなたが、ひとりでいなくちゃいけない理由なんて―――、ない」 のくちびるが一度ふるえ、かすれた声がこぼれた。だって=B 「わたしなんかの傍に、だれがいてくれるって言うの?」 問いかけは、あまりに悲しいものだった。 迷子のように、幼い不安が灯るの双眸に、たまらなく胸が痛む。 「私がいるわ」 だから、―――と、蓉子は思った。だから、自分が、傍にいよう。 どんな関係でもかまわない。がもうひとりでいなくて済むように。 がもう、 「あなたが、好きよ」 求めることを、ためらわずに済むように。 蓉子の決意のこもった言葉に、の目が、おおきく見開かれた。 |