私はあまりに知らなさすぎた。 虹 の 向 こ う 02.夕陽の色に見つけた感情
彼女はいつもどこか浮いた存在だったが、最近それがとくにひどい。 蓉子はいくつかの出来事を思い返して、江利子にそう言った。 「ねえ、なにか知らない?」 「って、言われてもねぇ…気のせいじゃない?」 「…江利子」 半眼で見つめてくる親友に、江利子は冗談よ、と肩をすくめた。 放課後の薔薇の館。その会議室に、江利子と蓉子の2人はいた。 江利子は蓉子の手ずから淹れてくれた紅茶を一口飲むと、言葉をつづけた。 「蓉子がそう思う理由はわかるわ。たしかに、近頃のさんは仙人っぽさによりいっそう拍車がかかっているものね」 「仙人って、あなたね…」 「だってそう思わない? おなじ空気を吸って生きているとは思えないわよ」 「言いすぎよ」 「否定はしないのね」 切り返されて、蓉子は言葉に詰まった。 否定は、たしかにできない。を初めて見たときから、蓉子も彼女の浮いた存在感に目を引かれていた。 以前の聖のように、集団から逸脱しているわけではない。とくに目立ったことをしているわけでもない。 ではなにがを、こうも浮かせているのか。 それは彼女自身がときおり見せる、ひどく虚無的な雰囲気にあるのではと蓉子は考えていた。 その理由は、蓉子にはわからないけれど。 「あなたもつくづく面倒ごとが好きよね」 あきれたように江利子が言う。それについては言い返せないが、ひとつだけ訂正しておく。 「面倒だと思ったことはないわ」 「なるほど、真性のおせっかいね」 「変な言い方しないでちょうだい。それで、心当たりはないの?」 江利子はわずかばかり黙考したが、結局首を横に振った。 蓉子はそう、とうなずいて、手元の紅茶に目を落とす。 予想はしていた。たぶん江利子が知っていたら、そのほうが驚いただろう。 なにしろは、 「なんにも話さないひとだもの」 蓉子の思いを江利子が代弁する。彼女は自分のことにかんして口が重かった。 もともと無口だが、それだけではない。 線引きが明確にされている。そう感じることが、彼女といてたびたびあった。 「蓉子もよくさんをかまおうと思ったわね。彼女、ある意味聖よりやっかいよ」 「…どういう意味?」 「わかっているでしょう。ぶつかれば反応が返ってくる聖とは反対に、さんは反応を返すこともなく逃げちゃうわ。取っ掛かりが作りにくいのは致命的ね」 「……」 江利子の言うことはただしかった。これまでもの内面を知ろうと努力はしてきたが、成果はほとんどない。けれどなにもないわけでもない。 「さんは、繊細なのよ」 「聖のこともそう言ったわよね」 「そうね。でも聖とはちがう。…彼女、たぶん怖いだけなんじゃないかしら」 「怖い?」 「たまにそう思うことがあるのよ。おびえている、って…。まるで、こころを開けば自分が傷つくって思っているみたいに…」 だから伝えたい。おびえることはなにもない、ひとはあなたが思っているよりも、ずっとずっとやさしいのだと。 「それに私、さんの見ている世界が見てみたいのよ」 知りたい。放っておけないのとはべつに、純粋なそういう感情があった。 彼女がなにを見て、なにを感じて、なにを考えているのか。ぜんぶ知りたい。 そう思うようになったきっかけはすこし前のことになる。些細なことだったが、それからその思いは日増しに強くなっていた。 ふと視線を感じて、顔をあげると、江利子と目が合った。 「なに?」 「…ねえ、蓉子。さんのことどう思っているの?」 「どう、って…友だちよ。それがなに?」 「友だち、ね…それだけ?」 「……、なにが言いたいの?」 江利子はしばらく蓉子をじっと見つめると、「わからないならいいわ」と会話を強引に打ち切って椅子を立った。 「もう帰るわ。後片付けはよろしくね」 「ちょっと、江利子?」 「なに? あなたが誘ったんだから、これくらい当然だと思うんだけど」 「そうじゃなくて。いまの、どういう意味?」 「さあ。ただ、あなたのいまの顔、友だちを思っている顔じゃなかったから」 「―――なに、」 「それじゃ、ごきげんよう」 蓉子が引き止めるひまもなく、江利子は会議室を出て行ってしまった。 残された蓉子は、江利子のなぞめいたセリフに、首をひねるだけだった。 □□□ 蓉子が薔薇の館を出たころには、空はすっかり夕陽に染まっていた。 蓉子はだれもいない中庭を歩きながら、その空の色にふとあの日のことを思い出した。 ―――虹の向こうを追いかけたことがある。 去年の夏だった。いつもの空き教室の窓際によりかかり、が言った。 蓉子は読んでいた本から顔をあげて、を見た。その向こうの空が、橙色に染まりかけていた。 「虹の向こう?」 「子どものころの話」 抑揚のない話し方はの特徴だ。彼女はあまり感情を見せない。 蓉子は本を閉じて、の話に耳をかたむけた。 「ちょうどこんな夏の日だった。まだ日暮れには早い時間だったけどね。強い雨が降って、わたしは学校帰りだった。バスを待っているあいだ、ふと空を見上げたら、」 虹があった。―――語る口調はなぜか苦く、悲しかった。 「わたしはずっと疑問に思っていた。虹の向こうにはなにがあるんだろう。虹ができる理屈なんて知らなかったから」 「それで、追いかけたの?」 「追いかけた。ふだん運動なんかしないのにね。虹が消えないうちにたどり着こうと思ったんだ。走って走って、走りつづけて―――」 「それから?」 はふと蓉子を振り返った。橙色の空。それを背負うの髪もおなじ色に染まっている。その表情は陰になって見えないのに、彼女が笑っているのがわかった。 それが自嘲であることも。 「帰り道がわからなくなった。夜になって、辺りは真っ暗で、どうしようもなくなって…それからどうやって帰ったのかは、おぼえてない。…ばかだね」 蓉子の脳裏に、幼い少女のすがたが描かれる。初等科の制服を着た少女。真っ暗な道にただひとり立ち尽くす。 不安でいっぱいだろう彼女は、けれど―――泣いていなかった。 想像の中ですら、は蓉子に感情を見せなかった。 ひどく悲しくなって、蓉子は言った。 「あなたは自分が求めるものを見るために、必死だったのよ。私はそれをばかだなんて思わない」 日が沈んだ。逆光が消え、見えたの顔は、驚きに染まっていた。 見開かれた瞳が蓉子を見つめる。蓉子もそれをまっすぐに見返す。 つぎの瞬間、はくしゃりと顔をゆがめた。それは微笑のようにも、泣いているようにも見えた。 の弱い、やわらかい部分を、見た気がした。 そのとき、だ。 彼女の目に映る世界を、こころの底から見てみたいと思ったのは。 虹の向こうを追いかけた、幼いにはなにが見えていたのか。 いまのはなにを見ているのか。 そのむき出しの感性もすべて包んで、守りたいと願った。 (だって、) きれいだと、思ったのだ。夕陽の色にふち取られた彼女の存在が、鳥肌が立つほどうつくしく見えた。 自分だけが知っている、のすがた。どこか傷ついたような目をして笑った彼女を、蓉子は忘れることができない。 そんなふうに笑わないでほしい。感情を隠さないで。弱い部分もすべて知りたい。なにを見ているのか教えてほしい。声を、言葉を、もっと聞かせて。 ぴたりと、蓉子はマリア像に向けていた足を止めた。 脳裏をよぎった思いに、動揺した。呼吸が、うまくできない。 願い、なんて生易しいものではなかった。それはまぎれもない、欲望。 江利子の声がよみがえる。 『あなたのいまの顔、』 友だちを思っている顔じゃなかった。 背筋があわ立った。蓉子は呆然と空を仰ぐ。 夕方の空は、あの夏の日とおなじ色をしていた。 |