扉の閉まる音がして、それきりあのひとは帰ってこなかった。



虹 の 向 こ う

01.モノクロの世界にただひとつ



 強く肩をゆすぶられて、は目を覚ました。
 薄く開いたまぶたの向こう側が赤く染まっている。
 にぶった頭ですこし考えて、夕暮れなのだと思い至る。

 どうやらだいぶ眠ってしまっていたらしい。
 まだ眠気の残る頭を持ち上げながら、は深いため息をついた。
 胃の辺りが重たく締め付けられるようだ。
 夢というのはどうしてこうも、現実に後を引くのか。

「起きた? さん」
「蓉子さん…」

 聞きなれた声に、はようやくそこにべつの人間がいることに気づいた。
 顔を覗きこんでくる級友を一瞥して、は周りを見回した。
 2人がいるのは、校舎の最上階の、いちばん端にある空き教室だ。
 長いあいだ使われていないそこは、物置として活用されている。

 あまり人気がないこの場所は、学校の敷地のなかでものいちばんの気に入りだ。
 ここにがよく出入りすることを知っているのは、蓉子を含めて数えるほどしかいない。

「…山百合会は?」
「今日はないわ。マリア祭が終わったから、しばらくはいそがしい仕事もないのよ」
「ふぅん…」

 はふいに横顔に視線を感じ、そちらを見やる。
 蓉子がじっとを見つめていた。

「……なに?」
さん、大丈夫?」
「…なにが?」
「なんだか元気がないみたい」
「そう?」

 ことごとく質問に質問で返してくるに、蓉子はわずかに顔を険しくさせた。

さん」
「帰ろうか」
さん、」

 強引に会話を切って立ち上がったの背中を、蓉子の心配そうな声が追いかけてくる。
 肩越しに振り返り見れば、蓉子はやがてあきらめたようなため息をつき、かばんを持って追いかけてきた。
 さすがに悪いような気がしたは、自分に並んだ級友へ向けて、ひと言だけ置く。

「大丈夫だよ」

 それでも心配の色が消えない蓉子の表情に、はおもわず緩む頬に気づき、顔を伏せた。
 自嘲が自然と口端に乗る。

 恋をしていた。


□□□
 求めるものは得られない。
 たかだか12の子どもが思うには、あまりに悲観的ではあるが、それがの答えだった。

 ほんとうにほしいものは手に入らないもので、手に入るものはほんとうにほしいものではない。
 友人にそのことを言うと、言葉遊びだと一蹴された。
 だがそれが真実だと確信していた。

 がほしいものはたったひとつで、そしてそれはけっして得られないものだった。
 求めれば求めるほどに、悲しみばかりが増していく。
 それなら初めから求めなければいい。手を伸ばさなければ、その手が空を切ることもない。

 こころを動かさない。
 それが、が生きていくために身に着けた手段だった。
 たとえ日々が、泥のように苦いだけであったとしても、悲しいよりはいい。
 これから先も、こんなふうに生きていくんだろう。―――は漠然とそう思っていた。
 絶望ですらなかった。淡々としたあきらめだけがあった。

新入生代表、ミズノヨウコ

 マイクが伝える聞き覚えのない名前が、のその日常を終わらせる。
 壇上には1人の少女が立っていた。
 それを見とめたとき、の芯から凍らせたこころが、一瞬にして熱を持った。

 肩の上で切りそろえられた黒髪。
 緊張に多少こわばった顔。
 けれど視線はしっかりと前を向いている。
 ぴんと張った背筋が感じさせる、強い意志。
 双眸が見せた、光。

 鮮烈な印象を、彼女はにたたきつけた。
 自分の鼓動がひとつ、おおきく跳ね上がるのを感じる。

(こわれた)

 がようやく作り上げた壁が、ガラスのように粉々に砕け散った。
 泣きたいと、思った。ほんとうにひさしぶりの感覚で、そうと気づくにはだいぶかかったけれど。
 はそのとき、泣き出したかったのだ。

 よろこびでもなく、悲しみでもない。失望だった。
 求めずにはいられない自分を、思い知って。
 あきらめるしかない。そう悟って。

 そうして世界は、色づいた。


「―――さま?」


 声に目をあげると、長い黒髪が見えた。

「静」
「ぼーっとしていましたけど…どうなさったんですか? さまは遠い目が似合いすぎるので、やめてほしいんですが」
「(どういう意味だろう…)いや、べつに」

 合唱部で鍛え上げられた美声が、ふしぎそうにの様子を訊ねる。
 は軽く首を振って、持っていた本をもとあった棚に押し込めた。

 蟹名静との付き合いは、4年ほどになる。
 付き合い、と言ってもたいしたものではなく、彼女が部活にいるときに、たびたびその歌声を聞かせてもらう程度だ。
 こうして図書館で会うときもあるが、それはたんに、彼女が図書委員だからというだけの理由だ。

 それでも姉妹がいない者同士、そういった噂は避けられないらしく、たまにその手の質問をされることもある。
 しかし、2人の答えはいつも決まって、その気はまったくない、というものだった。
 だからこそこうして付き合えるのだとは思っている。

 静は軽く首をかしげただけで、それ以上の追求はしなかった。
 こういう距離感も、長く付き合う秘訣かもしれない。は内心でつぶやきながら、本の背表紙を目で辿った。

「そういえば、このあいだの合唱部の練習には来られなかったんですね」
「静がいなきゃ意味がないから。家の用事だったんだって?」
「……、ええ、法事でちょっと母の実家に」
「…いまの間、なに?」
「いえ、なんでも」

 ただちょっとたまにびっくりさせられるんです、というわけのわからない言葉とともに、静が微笑する。
 はわずかにいぶかった。微笑に含まれた呆れに気づいたわけではない。静の表情の違和感に対してだ。

 はふたたび本棚に目を戻すふりをして、思案した。訊くべきか、訊かざるべきか。
 適当に目についた本を開きながら、は何気ない口調で言った。

「静、元気ないね」
「―――」

 微妙な間が空いて、そうですか?≠ニこれまた微妙な面持ちで静が言う。
 はそんな静を一瞥しただけで、特別なにかを言うことはなかった。
 干渉は負担。の鉄則だ。例外は蓉子ただひとり。

 この話はこれで終わりだと言うように本に目を落とす。
 活字に意識を置いたには、静が苦笑したことなどわかるはずもなかった。



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up data 07/01/29