ミクとの生活が始まって早1年が過ぎた。
 最初はぎこちなかったふたりも、今ではすっかり仲のいい姉妹のようだ。
 さまざまな困難がふたりを成長させたのだ。
 ときにはぶつかり合い、すれ違いもあった。
 そのたびにおじさんをはらはらさせたけれど、その分ふたりの絆はたしかなものとなっていった。

「ミクー、行くよー」
「ま、待ってください、マスターっ」

 玄関先からの声に、ミクが慌てて出てくる。
 転びかけながら靴を履くミクに、チカは微苦笑した。
 妹を見守る姉のようなまなざしを見止めて、隣にいたおじさんはこっそりほほえんだ。
 おじさんが空を見上げる。
 気持ちのいい天気。まさしくピクニック日和だ。

「おじさん?」
「どうしました?」

 ふしぎそうに見上げてくる少女ふたりに、おじさんはにっこりした。

「なんでもない。さあ、行こう」

 爽やかな風が吹き抜ける。
 チカとミクは手を繋ぎ、青空の下を駆け出した。



Sing,Sing,Sing!
さんきょくめ



「っていう夢を見ました」
『……』

 チカは電話の子機を片手に、縁側に座り込んでいた。
 少女の一人暮らしとは思えない、手入れのされた庭が、月明かりに照らされている。
 夜風が裸の足を撫でた。
 田舎の夜は本物の静寂だ。
 ましてチカの家は人里から少し離れていて、お隣さんは二キロ隔てているので、その静けさといったら尋常ではない。
 そんな状況でのチカの話し声は、どんなに気をつけてもよく響いた。
 一応この相談は彼女≠ノ関してのものなので、本人にはまず聞かれたくない。
 そんなわけでチカは非常に気を使いながら話していたのだが、実際はその必要がないことも頭ではわかっていた。

 いま、彼女≠ヘ――厳密にはスリーピングモードというらしいが――睡眠中だからだ。
 この時間帯はそのモードに入るように設定≠オている。
 ほかにも、起床、食事、入浴など、人間が生活と呼ぶあらゆる行動に、設定≠ヘ必要だった。
 もちろん、しなくてもいい。
 その場合、彼女はスタンバイモードを維持する。
 指定された場所で、ひたすらじっとしているのだ。
 みじろぎひとつ、まばたきさえしない様は、チカの心臓を無意味に刺激した。
 だからチカはしかたなく設定≠、んぬんをしたのだが―――これが悩みの種だった。

「夢は願望の現われっていうけど、ほんとうにそうなんですね。チカ納得」
『チカ、虚ろに笑うのはやめなさい。不気味だから』

 おじさんが若干引き気味に言う。

『うまくいってないのか』
「うまくとかまずくとかの問題じゃないです。もう、わたし、なんていうか、」
『落ち着け。ゆっくりでいいから、話してみろ』
「おじさんがやさしいとなんか気持ち悪い」
『おやすみ』
「あ、あ、待って、ウェイトっ、じゃすたもーめん!」

 おまえはいつもひと言余計だ、というおじさんの説教にうなだれる。
 そのあいだじゅう、つぎは気をつけようと思うチカなのだが、その反省が活かされたためしは、今のところない。

「なんて言えばいいのかな。すごく戸惑うというか」

 そこでいったん言葉を切って、頭の中で整理する。
 こういうことを普段あまりやらないチカは、慣れない作業に手間取って、長い沈黙を作ってしまった。
 おじさんはそのあいだ、ずっと黙っていてくれた。

「つまりさ、ミクは人間じゃないんだよね」
『そうだな』
「でも、見かけは人間でしょ。だからついそういうふうに接するんだけど、そうするとミクは、無機質な反応するから」
『無機質?』

 鸚鵡返しの語尾がわずかに上がった。
 自分なんかよりずっと機械に詳しいはずのおじさんが、心底ふしぎそうにしたことで、チカは口ごもった。
 もしかして、そう感じるのは自分だけで、あれが普通なのだろうか。
 チカはほんの少し迷った末、そうだったとしても、自分にとって悩みの種であるのは変わりない、と思いなおして続けることにした。

「機械っぽい、っていうのかな。設定だの入力だのしてくれって言ってくるんだよね」

 それがどうもなじめなくて。チカはため息をついた。
 一見して人間そのもののミクからそんな言いようをされると、余計に戸惑ってしまう。これが全身まさしく機械、という姿ならまだいいのだが。
 チカは途方に暮れる気持ちだった。
 触れた足の指先がすっかり冷えている。
 一緒に心まで温度を下げたようで、チカは身震いした。

『なあ、チカ』

 しばし、思案するように黙り込んでいたおじさんが、ふいに言った。
 続く言葉に、チカは丸い目をさらに丸くした。



 午前七時ちょうど。
 ミクは設定された時間通りに目を開けた。
 起動を確認する。異常なし。
 つぎに周囲を見回す。
 部屋の奥にはパソコンとデスク、その隣にはぎっしり本が詰まった本棚と、たんすが置かれている。
 障子を透かして朝日が入り込んでいた。
 いつもと変わらない光景だ。

 ミクは布団――必要ないと言ったが彼女の主人は聞かなかった――から出て、立ち上がった。
 主と朝食をともにするためだ。
 ミクは食事をすることができる。これはヒューマノイドならすべてにつけられている機能だ。
 ヒトそっくりに造られた彼らを、そういうふうに扱いたがる人間は多い。
 彼女の主人も、そのひとりのようだった。

 設定された時間に、指定の場所で、言われたとおりにする。
 これが最初から与えられたミクの役割で、ずっと変わらないものだ。
 そのはずだった。このときまでは。
 ミクはふいに、敏感に造られた聴覚で近づいてくる足音を聞き取った。
 主人のものだ。
 足音は部屋の前で止まり、ほぼ同時に障子が開かれた。

「おはよう、ミク」

 笑って、挨拶。
 いままでにない主人の行動が、ミクの反応を鈍らせた。
 いつもきっかり10秒に1回のまばたきを、このときは3回ほど余計にしてしまった。

「おはようございます、マスター」
「朝ごはん、今日はトーストにベーコンエッグとわかめスープ、あとサラダね。ツナマヨ好き?」
「私に好き嫌いはありません、マスター」
「―――じゃ、大丈夫だね。ごはんにしよ」

 ほんのわずか、言葉に詰まったような間を空けたチカだったが、それでもすぐに気を取り直して笑った。
 ぎこちなくはあるものの、たしかな好意表現。
 ミクはますます、困惑を深くする。
 居間へ向かおうとする主人の背中に口を開きかけて、踏みとどまる。
 自分は、機械だ。
 主人の行動に疑問を差し挟むなど、するべきことではない。
 ミクは黙って、自分とそう変わらない背丈の少女に追従した。



 もくもくと食事を続けるミクを盗み見たチカは、その表情がいつもと少し違うことに気がついていた。
 昨夜もらったアドバイスは、かなり効き目があったようだ。

『おまえのやりたいように、やってみたらどうだ?』

 おじさんの言葉はチカを戸惑わせるに充分だった。
 それをしたあとの反応に困っているというのに。
 するとおじさんはこう言った。

『ミクのようなヒューマノイドはな、人間そっくりに造ってある。それはなにも見かけだけじゃなく、中身もな。つまり、ヒューマノイドっていうのは人間の特性をほぼ再現してるんだ。これがどういう意味だかわかるか?』
「おじさん、わたしの成績表見てるよね」
『ああ、おまえがばかだってことはちゃんと知ってる。訊いてみただけだ』

 一生結婚できねーよこのおっさん、と胸中吐き捨てて続きを待つ。

『わかりやすく言うと、ヒューマノイドは優れた学習能力を持ってる。会話の中から主人の好みや要求を、自力で拾うんだ。な、人間同士がするようなやり方だろ。これが本来のヒューマノイドだ』
「んー。ミクみたいな反応は珍しいってこと?」

 眉間に皺を寄せながら、チカは懸命に頭を働かせた。
 電話口から肯定が返ってくる。

『普通はない、ってレベルのな』
「じゃあ、あのミクはどっか壊れてる?」
『いや、中身に問題はない。それはチェックした。ちょっとしたバグだろう』
「それ、直る?」
『直る。おまえが直すんだよ』
「わたしの機械音痴ぶりを舐めないでいただきたい」
『だれが舐めるか、家電売り場でテレビとレンジを素で間違えるような阿呆を』
「黒歴史発掘ありがとうございました」

 あのときの店員の引きつった笑みは、いまでも忘れることができない。
 閑話休題。

「で、直すって、具体的には?」
『だから、最初に言っただろ?』

 人間として扱って、ミクに学習させる。
 これが、おじさんが提示した解決策だった。



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09/05/28