とある異界の竜殺し 「第三部隊、移動中です」「第七部隊、配置完了」「第一部隊から伝令。目標に動きはありません」「第三部隊配置場所へ到着」「魔法陣の用意は?」「万端です」「……、発動しろ」「了解!」 南から西にある大きな森へ河川が流れ、東から北にかけては、虎が横たわるような形の影を作る峰が伸びている。 いつもは穏やかな時間が流れる、とある大陸の草原は、今はあわただしく物々しい雰囲気だった。 その中心に、場違いなほどのんびりとしている少女がいた。 少女は草木が伸びる大地に悠々と腰を下ろし、夜空にまたたく星と、ぽっかり浮かぶ月をながめている。 アルトというその少女は、見た目にして年齢は17、8。肩の辺りまで伸びた髪は、青く銀色の輝き、まるで彼女が見上げる月の光をそのまま吸い込んだような色をしている。一見してか弱く見える細い身体にまとうボディアーマーは、よく見れば傷だらけで薄汚れて、長く使い込まれていることがよくわかる。 膝を曲げて座っているアルトの手には二振りの剣があり、柄を上に、剣先を地面につけ、肩にかけるようにしている。一方は竜の牙を思わせる形で、もう一方は簡素な造りだ。どちらも片刃で、傍目にはすぐに折れてしまいそうだが、じつは名工と謳われるとある刀工が、アルトのために魂をこめて打った刀剣だ。普段は頼りなささえかもし出すそれらは、しかしひとたび戦いとなればどんな敵でも切り裂く牙となる。まるでアルトのようだ、とそれらの剣を評したのは、いったいだれだったか。 アルトは長年苦楽をともにしてきた愛剣を抱えなおし、ようやく動きが収まってきた軍隊に目をやった。 油断なくアルトを見据える兵士たちの後ろで、魔道士たちが杖を構え詠唱に入っている。空気中の精霊の力が彼らに集まっていくのを、アルトは肌で感じていた。魔法は専門ではないが、その程度の力の流れなら感じられるほどには、アルトも魔法を使いこなしている。 詠唱が進むにつれ、金色の光が生える草を割って、魔法陣を形成しはじめる。 それらの輝きを、アルトはやはりぼんやりと見ていた。 なんの魔法陣だろう、と小首を傾げて、それから、そんなことはもうどうでもいいことなのだと小さく笑う。 かつて出逢い、今も友と呼び合う仲である、とある巫女を思い出す。 数日前、唐突にアルトの前に姿を現したかの巫女は、いつもの落ち着いた、ともすれば冷徹な表情を、わずかばかり歪めてアルトに告げた。 これより三日後、そなたはこの大陸じゅうの軍隊に囲まれ、ある魔法陣で消されるだろう=Aと。 そしてそのとおりの結果が、ここにある。 あの風の巫女の予言は、ほんとうによく当たる。 アルトは今ここにいない友人に向けて、かすかに笑んだ。 つまらない話をしよう。 アルトが生まれた場所はよくわからない。 というのも、アルトは生まれてすぐに親に捨てられたからだ。 魔物の出る森の深いところに、生まれたばかりのアルトは置いていかれた。そのままであれば魔物の餌食となるだけだった、アルトの命は、ひとりの美しい女性によって救われる。 彼女の名はアスティア。アルトが生まれた森の奥にある、小さな村に住んでいた。 アスティアは拾った赤ん坊に名前をつけ、やさしく慈しみながら育てた。 アスティアとアルト、血は繋がらないが、ふたりは穏やかな暮らしの中で、互いを大事に想い合いながら生活していた。 しかしそれも、16年後のある日を境に、激変する。 竜王の覚醒。魔人の復活。母の真実。 はるかな遠い時より繰り返してきた、戦乱の幕開けに、母は深く関わっていた。 告げるもの、アスティア。彼女は魔人だった。愛を知った魔人は、娘を護るため、ほかの魔人の前に立ちふさがる。すんでのところで母に救われたアルトは、母を救うための旅に出た。 出逢い。別れ。裏切りと喪失。繋がっては離れ、離れては繋がる絆。 それまでアスティアだけで完結していたアルトの世界には、さまざまなものが増えた 出逢うということ、失くすということ、奪うことと奪われることを覚えた。 護りたいものがあった。だから護った。 助けたいひとがいた。だから助けた。 そのために必要な戦いがあった。だから戦った。 そうして前へ、ただ前へと進んでいき、気づいたときにはアルトは救世の英雄と謳われるようになった。 その英雄が、なぜ今になってこんな状況に陥っているのか。 アルトの身体には、破壊の神と呼ばれるものが宿っている。それを宿し、さらには操ることさえできるアルトを、ある存在が危険視した。 神の代理人。みずからをそう称するそれは、アルトを滅ぼすべく牙を剥いた。 ―――だから殺した。 いまや神そのものとさえ思われているそれを、アルトはその手で打ち倒した。 残ったのは、だれもが地上最強と認める力を持つ、アルトだけだった。 さて。 かくして平和になったこの世界に、最強という存在は必要なのか。 答えは否。 むしろ、強大すぎる力は平穏を乱し、ひとびとに恐怖を与えるものだ。 ならばそんな要因は排除すべきだ。そんな単純明快な理論によって、アルトは消される。 母を捜すため旅に出て、出逢った仲間と友のため剣を振るった。その戦いの中で、勇者と呼ばれる男さえ退けるほどの力を得た少女は、ゆえに疎まれた。 ―――ただそれだけの、つまらない話だ。 大地に施された魔法陣がいっそう輝きを増し、中心にいるアルトを囲む小さな円に沿って金色の光が放たれる。それは夜空へ向かってまっすぐに伸び、さながら光の檻のようにアルトを閉じ込める。 アルトはなおも動かなかった。 アルトに予言をした風の巫女は、黙って頷いたアルトを見て、一瞬にも満たない刹那、泣きそうな顔をした。 彼女のそんな顔を見たのは、それが初めてで、そしてきっと最後だった。 逃げろ≠ニ言いたかったのかもしれない。 生きろ≠ニ言いたかったのかもしれない。 わかっていながら沈黙を守ったアルトは、やはり英雄などではない。 (…さよならを、言えなかったな) かつての仲間たちを想う。 彼らはきっと怒るだろう。それでいい。黙って消えるこんな身勝手な自分のために、涙なんて流してほしくなかった。 それならそもそも消えるなと、腹だしシスコンあたりになら怒られるかな、とアルトは笑う。 それでも、その選択をする気にはなれなかった。 大切なひとを殺され、闇に堕ちた神、ウルグ。それを宿したこの身は、強くその影響を受けている。 その変化≠ノ気づいたのは、騒乱の収束からしばらく経ったころ。そのときは愕然とした。なんとかなるだろうと楽観できたのはつかの間で、次第に不安はアルトを蝕み、やがてひとつの願いになった。 だれかが自分を殺す≠ニいう願い。 それを知れば、かつての仲間たちなら口々に言うだろう。だめだ、死ぬな、そんなのは間違っていると。 不変という変化をしたアルトをあっさりと受け入れて。 だからこそ、怖い。この変化がもしもここに留まらなかったら。あるいは自分が呑まれてしまったら。 もうだれも自分を止めることができないのに、そんな事態になったら世界は確実に破壊される。 そしてその破壊の中には、きっとアルトの大切なひとたちも含まれているだろう。 想像するだけで身震いした。 そんなことはあってはならない。 絶対に、あってはならないのだ。 ゆるりと、風が頬を撫でた。悲しみを無表情に押し込めて、去っていった友人を思い出す。 「…ごめんね」 アルトは静かに笑った。 遠く離れても、彼女になら言葉は届く。だからアルトは、風に声を乗せた。 「ありがとう」 風が名残惜しむようにアルトを愛撫すると、髪が揺れ、月光を浴びた青銀が輝いた。 目を閉じて、うつむく。 長い、長い詠唱が終わる。夜の暗闇が一瞬、太陽よりも強い光に蹴散らされ、魔法陣が発動した。 光の檻の中心にいたアルトは、黙ってそれを受け入れる。 風がよりいっそう強く吹いた。 きっと彼女はアルトの内心に気づいているだろう。天地千年を見通す彼女なら。 だからアルトは、ただひと言を置いて、ほかにはなにも言わなかった。 「―――さよなら」 放たれた閃光がアルトへ向かって収束する。光の檻は光に満たされ、アルトは息苦しいほどの精霊の力を感じた。 魔道士たちが杖をいっせいに天高く掲げ、最後の呪文を唱える。すると、収束した光がアルトを連れて、一直線に天を貫いた。光はまっすぐ、矢のように月へ向かってひた走る。 やがて、夜の静けさが戻ってきた。 魔法陣は無事に発動し、世界の脅威は光とともに夜空へ消えた。 しかし、だれひとりとして歓声を上げる者はいなかった。それどころか、ぽつり、ぽつりと、嗚咽のようなものが草原にちらばる。それは徐々に広がり、暗闇を満たしていく。 甲冑の中で、あるいはフードの奥で、泣き声を押し殺す者たち。風は彼らに哀れむように寄り添いながら、みずからも嘆きの声を夜空に響かせた。 ―――つまらない話をしよう。 多くが望まない消失があった。 ただそれだけの、つまらない話だ。 |