すっかり暗くなった道を、は夜空を見上げながら、おじさんはの後頭部を見つめながら、それぞれ歩いている。 の蒼くきらめいていた双眸は普段どおりに戻っていたが、そもそも自身の変化に気づいていなかったにはわからないし、おじさんは今のの様子に、そのことを訊ねるタイミングを失っていた。 自身のことについてうやむやになった点があることさえ知らず、はぼんやりとなのはのことを考えていた。 話して、ちゃん。ちゃんの考えてること、知ってること、見てるもの、全部わたしにお話して 迷いのないまっすぐな目でなのはは言った。 なにが悲しかったか、どんなことがつらかったか、どれくらい苦しかったか。言葉にして、伝えるの。そしたらきっと、…分け合えるよ ばかみたいだ。そんなことありえない。 否定するのは簡単だった。きれいな言葉はいつだって、紙くずよりももろい。 だけど。 いっぱい話して、いっぱい泣こう。そのあとは、たくさん楽しいお話をしよう なのはは1足す1の答えを言うように、に告げた。 ねえ、そうしたら、きっと一緒に笑い合えるから それは、世界でいちばんやさしい答えだった。
第4話 つないだ手のひら(6)
『…』 頼りない視線を夜空にさまよわせていたが、おじさんへ目をやった。 「なに」 『いや。…大丈夫か?』 「なにが?」 『さっきから、その…なんや、ぼうっとしとるから』 「…べつに」 気遣わしげな視線から逃れるように顔を背けて、黙り込んだ。 なのはに握られた手が、熱い。その熱はの心にまで達して、かき乱す。心臓がざわめく。 ひどく落ち着かないのに、不快に思うこともし切れず、でも心地よさにはほど遠い。空中から吊るされているような気分だった。 (分け合う、って?) 口端を軽く曲げる。 「分け合う、って?」 口にして、嗤った。 それを見たおじさんが、目を険しくさせる。 「分け合おう、だって。はは。変なの。できっこないのに、そんなこと」 『……』 「話すだけでなにが変わるっていうの。言葉にしたって現実は変わらない。気が楽になる? ただごまかされるだけじゃんか」 『…』 「いちいち自分の痛いところなぞるようなまねしてなにが楽しいの。マゾかっつの。ははは。ばかじゃないの。高町さんってほんと、」 『!!』 怒りを混ぜた制止の声に、は口を閉じた。 痛いくらいの静寂が落ちる。の足はいつのまにか止まっていた。 おじさんがの正面に回りこみ、厳しい表情でを見据える。 『。そないなこと言うのやめ。それはあかん。絶対あかん』 「…なに怒ってんの。事実じゃん」 『ちゃうやろ。ほんまはわかっとんのやろ』 「なにを? …くだらない。ほんとうにくだらない。高町さんの言うとおりにしてもなんの得にもならないでしょ。ああそれともなに。ひとの好意を踏みにじったらいけませんって? あいにくだけど私は―――、『違う。俺が怒っとるのはそんなことやない』 ますます目を険しくさせて、おじさんはを睨んだ。 『が自分で自分を傷つけとることや』 「―――…」 ふ、と。の呼吸が、一瞬、止まった。 『なのはちゃんが本気でを想うてること、はちゃんとわかっとるやろ。あの子がどんなに真剣に、本心からああ言うたか、が一番よう知っとるはずや。…ひとの気持ちを踏みにじることが一番嫌いなんは、やろ』 「…あんたになにがわかる」 『そうやな。俺らは出会ったばかりの赤の他人やし、俺はきみの嫌う幽霊や。非日常そのもの、きみが一番関わりとうないモノやろ。―――そんな俺を、きみはこうして傍に置いとる』 「……」 『厄介ごとが嫌や言うておきながら、はやてと一緒にいてくれとるんはだれや。さっき友だちのために怪我まで負ったのはだれや』 はうつむいた。前髪に隠れて表情はよく見えないが、唇はきつく結ばれている。 『それだけでわかる。はやさしい子ぉや』 そんな子が、ひとの好意を汚して平気でいられるわけがない。 それに、とおじさんは心中で繋げる。 自身の悪態にひび割れていくの瞳を見て、それでもそれを真意だなんてだれが考えるだろう。 関わりたくないと言いながら、情にほだされ非日常に片足を突っ込む。 言動と行動の矛盾。 やさしい気性を垣間見せながら、それに順ずることができない理由とは。 『。なにがきみをそうさせるんや』 自分自身を深く傷つけてまで、貫かなければならないのか、その拒絶は。 おじさんの問いかけに、深く重い沈黙が降りた。 遠くで、犬の遠吠えが聞こえる。夜の静けさに包まれて、重たさを増した沈黙の中、ふいに聞こえたのは、 「…は、」 嘲笑。それはだれに向けたものか。の小さな唇がゆるりとゆがんだ。 「やさしい、って? 私が? は。…ははっ」 『…?』 「はははっ、冗談ならもっとましなの用意してよ。私が、やさしい? ―――そんなわけあるか!!」 嘲りは突如怒声に変わる。 ぎしりと、きしむほどに歯噛みしてはおじさんを睨みつけた。 「私はやさしくない。やさしさなんて欠片も持ってない!」 双眸に宿る怒りはまっすぐにおじさんを射抜きながら、けれどそのじつ、それは目の前の男に向けられたものではなかった。 「あの子≠この手で殺したのは私だ!」 『―――ッ』 突き出された拳。力いっぱいに握られたそれは、ついさっき、ひとりの少女をこの世から消滅させた。 死したものだ。本来ならあるべきでないモノだ。その上ひとを傷つけ、殺そうとした。 ―――そんなものは、にとってはただの言い訳だ。 正当な理由でさえにはごまかしでしかない。この少女にとって重要なのは、世界中でたったひとつのだれかの願いを、跡形もなく消してしまったということだけ。 それだけで、その行為は罪となる。 おじさんはそれを理解するとともに、がそこまでしてなのはを拒絶しようとする理由に思い至った。 1から10まで、すべてを語りきったとしたら、あの心優しい少女はどうするか。 分け合おう それは、それだけは、にはなんとしてでも拒まなければならないものだった。 名も知らない少女の悲鳴。もはや癒すことの叶わない痛みがあることを、知らせるわけにはいかない。背負わせるわけには。 だから、黙る。けれどそれだけでは足りないから、悪態によって拒絶する。 縋ってしまいそうな自分を、叱咤するために。 の本質が、ここにあった。 重苦しい沈黙を背負いながら帰宅したを待っていたのは、はやての怒りだった。 「どこに行ってたんや」 「え、や。ちょっと忘れ物を取りに学校まで…」 「電話しても出ぇへんから家まで見に行ったのに、インターホン鳴らしても答えへんし。それに携帯! さっきから何度もかけとったのになんで出てくれへんの!?」 「え、やべ。電源!」 逃走前に電源を落としてそれきりだったことを思い出して、あわてて取り出す。 すっかりいつもの調子に戻っているを、おじさんは複雑な表情で見つめていた。 そんなことは露知らず、の無断外出を怒っていたはやてが、ふいに顔色を変えての腕を取った。が負傷し、ハンカチで応急処置をしただけの左腕を。 やば、ととおじさんが同時に思ったけれど、すでに遅かった。 「どないしたんや、これ!」 「あーいやその…ちょろっと不法侵入中にフェンスにひっかけちゃって」 「あほ! はよちゃんと手当てせんと…! うちに上がって」 「や、べつにへい「あ・が・っ・て」…ハイ」 超怖い。 苦笑したを見て、はやてはふと口をつぐんだ。 「? なに?」 「……、。なんかあったん?」 「…え?」 「だって」 そ、と、はやての手がの頬に添えられる。 親指が、の目元をそっとぬぐうように滑った。 「悲しそうな顔、しとるから」 ふ、とは口を閉じた。動揺に、視線が揺れる。はやてが心配そうに眉尻を下げた。 「なにがあったんや」『……』 気遣わしげな2対の視線に対して、はしばし沈黙したのち、 「…べつに、なにも」 笑った。 見守っていた4つの瞳が悲しげに揺れる。そのうち2つ、おじさんは痛ましげに細められ、残りの2つ、はやてのそれは、すぐにやさしげなものに変わった。 「……そうか。ほんならええんや」 ぱっと手を離して、はやてはほがらかに笑った。すべてを包み込むような、暖かいまなざしで。 意外な反応にのほうが眼を丸くする。そんなに、はやてはやはり笑ったまま言った。 「言いたくないことなら、言わんでもええよ。そやけど、」 の左腕を、そっと撫でる。それだけで、痛みが引いていくような気がした。 それから、はやてはの手をそっと握る。 「今日は、やっぱり泊まっていき」 やさしいのに拒否をさせない力強さで繋がれた手のひらを、は振り払おうとした。 ―――けれど。意志に反して身体は動かない。 頷くことも首を横に振ることもできず立ち尽くしているを、はやてが静かに見つめる。その目は温かく、触れられた手はもっと熱く、にはなのはのそれと同じように感じた。 ぐらつく自分を自覚して、は奥歯をかみ締めた。 背負わせるわけにはいかない。気づかせるわけにはいかない。 この世にどうしようもない痛みや悲しみがあることを。この手がそれを生み出してしまったことを。あるいは、消してしまったことを。 なにより、だれかに縋るわけにはいかなかった。 なぜならは、ひとりで立っていなければいけないのだ。 だれにも決して甘えない。そんなふうに生きると決めたのだから。 それくらいできなければ、 (いつまで経っても…父さんの枷だ) それだけは許されないことだった。 |