ファブレ邸の中庭に出たティアは、降りそそぐ陽光の中、花壇の前でしゃがみこんでいる少年を見つけた。 黙々と作業をしている子どもの背中に首をかしげて、彼女はそっと歩み寄り、後ろから覗きこんで声をかけた。 「なにをしているの、ルーク?」 「あ、ティア」 彼の翠の双眸がティアを振り仰ぎ、うれしげに細められた。 本人が気づいているかどうかはべつとして、彼はときおり、こうしてティアに好意を示す。 恋する相手にこんなふうに好感情を見せられると、うれしいけれど気恥ずかしさも感じてしまう。 ティアはさり気なくルークから目を逸らし、代わりに彼の手元に目を落とした。 「…種?」 「うん。ペールに教わって、種を植えてるんだ。ほら、瘴気のせいで太陽が出なくって、花がいくつか死んじまったからさ」 枯れた、とは言わなかった。ルークは命の重さをだれよりも知っている。たとえ花一輪、雑草のひとつさえも、この少年は尊く思うのだろう。 しゃがみこんで隣を見やる。ルークの口元には微笑が浮かんでいた。 近頃の彼は、よく笑うようになった。 空がきれいだと言っては笑い、風が吹けば気持ちいいと笑い、ひとの声がすればそれだけで愛おしそうに。 その透きとおった微笑が、ティアを切りつけているなどとは、彼はきっと想像もしていないだろう。 騒ぐ胸を隠すように、右手で抑える。 「…ティア?」 「えっ、あ、な、なに?」 怪訝そうな声に振り向けば、ルークが横から、心配そうに顔を覗きこんでいた。 「どうしたんだ、ぼーっとして…もしかして具合でも悪いのか?」 「ううん、平気よ。ルークこそ、大丈夫なの?」 「おれ? おれは大丈夫だよ」 そう言って笑うルークの瞳に、影がよぎる。 言葉に詰まったティアは、ちいさく嘆息して目を伏せた。 「そう…なら、いいわ」 「うん」 ルークもティアから視線をはずし、作業を続ける。 土を掘り、種を植え、土をかぶせる。 単調な動きを繰り返しながら、ふいにルークが言った。 「いま種を植えたら、咲くのはちょうど暖かくなるころなんだってさ」 「…そう」 「そしたら見に来いよ。世話はペールがやるから、きっときれいに咲くぜ」 「あら、種を植えただけで、あとはぜんぶ人任せ? よくないわ、そういうの」 「だってそれは…しょうがねぇじゃん」 「しょうがなくないわよ。ちゃんと最後まで面倒見なさい。…あなたが植えたんだから」 ルークはちらりとティアを一瞥すると、「また叱られちゃったな」とさみしそうに苦笑した。 その声に耳を傾けながら、ティアは土塗れになった少年の手を見つめる。いつからか、この手はティアに触れることをやめた。ときたま触れようとしてためらうしぐさを見せる彼を知っている。 以前道端にいた仔猫に触れようとして、おなじようにためらうのを見たとき、どうしようもなくせつなくなった。 ああ、もう、ためらわないのね。―――ティアはささくれ立った両手に目を細めた。 命に触れること、ぬくもりを感じること、それを尊ぶことを、彼はもうためらわない。 それはとてもよろこばしいことで、素敵なことで、それなのに。 (どうしてこんなに苦しいのかしら。あなたがやっと、世界を愛するようになったのに。自分を受け入れることができたのに、) それをとても悲しいと感じるのは、なぜ。 「なあ、」 深い思索にふけっていたティアを、ルークの声が引き戻した。 見やると、ルークはいつのまにか作業を終えて、じっと土を見つめている。 その目は、いまさっき植えた種が、すぐにでも花にならないかと願っているようだった。 「なあ、でも、咲いたらちゃんと見に来てくれよ。みんなといっしょにさ」 「だったら、咲いたときに知らせてちょうだい」 「ちゃんと来てくれよ」 「行くわよ。だから、」 「うん。…ごめんな」 ティアは絶望的な気分になった。 このひとをいますぐにでも憎めたら、どんなによかったろう。 (ああ、でも、そんなのは無理ね) だって彼はやさしすぎる。 いままさに、自分を喰いつぶそうとしている世界にも、愛を向けるようなこの子どもを、憎めるはずがない。 「謝らないで」 「うん。……ティア、」 「なに?」 「ありがとう」 深い声が言った。そのときの横顔を、ティアはけっして忘れはしないだろう。 植えた種が花となって、いつか枯れてしまっても、きっと。 「……ばか」
見に行くわ。あなたが植えた種が花となったら。
そして約束よ。そのときもう一度、 今度は一緒に、種を植えましょう。 だからおねがい。どうか、どうか、生きていて。 |