その少女は、自分などが触れてはいけない神聖なものなのだ。 ルークはいつのまにか、ティアをそう思うようになっていた。 それがいつのころからなのかはわからない。死をも厭わぬ強さを見せられたときか、この髪と過去の自分を切り捨てたときか、それとももっと前なのか。 ただひとつだけわかっているのは、自分はけっしてティアに触れてはいけないということだ。 それだけはルークのなかでなにがあっても変わらないと思う。そのようにありたいとさえ願う。 けれど願いと感情と欲求はまったくちがうもののようで、うかうかしていると、ついかの少女に触れてしまう自分がいる。 そうして自分のなかの決まりごとを破ってしまったあとで、ルークはかならず後悔するのだ。触れてはいけなかったのに、触れてはいけないのに、触れてしまった。 だれも聞いていないのに、後悔とともに吐き出される謝罪の言葉が、なおさらルークを責め立てる。 おまえが触れていいものではない、と。 「…ルーク?」 つい先ほど、ちょっとした事故(彼女がつまずいて、ルークがとっさに手を伸ばした)で掴んだ彼女の肩の感触と温度が、いまだに残るてのひらを見ていたルークは、背後から近寄る気配に気づかなかった。 後ろから覗き込まれて、影が落ちる。ルークは見上げて、それが今の今までずっと考えていた少女だと知ると、あわてて身体を浮かした。 ルークの動きとあわせて、雑草がかさりと音を立てる。 「ティ、ティア…どうしたんだよ?」 「それはこっちのセリフよ。ご飯ができたからってアニスが呼んでいるのに、ルークったらちっとも来ないんだもの」 言われてルークがそちらを見やれば、アニスおよびほかの面子が揃ってこちらを見ている。純粋にルークとティアを待っている者もいれば、含んだような視線を送ってくる者もいる。割合にして1:3。どっちがどっちかは言うまでもない。 鈍いルークはもちろんその視線の含むものには気づきもしないが、ぼんやりしていた自分を見られていたことに恥ずかしさを覚え、頬を赤くした。 「ご、ごめん、すぐ行くよ」 「…ルーク」 なぜかため息をつかれて、ルークは身を固くした。 あれからずいぶん経ったけれど、自分が犯した罪を忘れたわけではない。彼らはもうそのことを口にすることはなくなったし、まなざしもやわらいだけれど、ルークはけして忘れない。忘れてはいけない。 罪を犯した自分。それを認めなかった自分。仲間に見放された自分。そしてティアに言われたこと。 いつでも見限ることができる。 彼女に見限られたとき、そのときが自分の最期だ。ルークは冗談ではなくそう思っている。この一見冷たい、けれどとてもやさしい少女に見放されたら、それが、ほんとうにほんとうの最期だ。 だから、ティアの前ではひどく緊張する。そして思うのだ。触れてはいけない。この少女にだけは、絶対。 (それなのに触れてしまった) 「ティア…?」 「なにを考え込んでいるのか知らないけれど、あまり思いつめないほうがいいわ」 みんなも心配しているのよ、と告げられれば、ルークは申し訳なく思うほかない。 「う、うん、ごめん。でも、大丈夫だよ」 最近はずいぶん慣れてきた、笑うという行為に、ティアはけれどすこしだけ眉を寄せた。なぜそんな顔をするのだろう。自分はまたしくじったのか。ぎゅぅ、と心臓を掴まれたような心持ちで、ルークはおもわずティアの顔色を窺った。 するとティアは困ったように眉尻を下げて、「そんな顔しないで」と声まで困り切ったよう言う。 ルークは、そんな顔と言われても、とさらに困って首をかしげる。どうすればいいのだろう。どうするのが正解なのだろう。 ティアに触れた左手が熱い。触れてはいけないものに触れたこのてのひらは、ふるえるほどおびえている。 ああそもそも、どうして自分はこんなにも、目の前の少女に触れるのを嫌がっているのか。いや、嫌だというのではない。ただ、怖い。そう、怖いのだ。(それはなぜ?) 「ルーク、私は―――」 「…うん?」 「……な、なんでもないわ」 言いかけて突然頬を染めながら口ごもる。ティアのよくわからない行動に、ルークは首をかしげた。 翠の双眸にふしぎそうに見つめられたティアは、ごまかすように咳払いしてルークをうながした。 「さ、さあ、みんな待っているから、行きましょう」 「え、う、うん…??」 ルークはうなずいて、ティアの数歩後ろを歩き出した。その背中がこわばっていることに気づいて、ルークは自分と一緒にいるのが嫌なのだろうか、と想像して、急に左手が冷えるのを感じた。 そうか、そうだ。納得して、泣きそうになった。 ティアに触れてはいけないと思うのは、そうありたいと願うのは、そして触れることを恐れるのは、結局、自分のわがままな想いからだったのだ。 彼女に拒絶されたくない。見放されたくない。自分を見ていてほしい。 こんなにも血に塗れた自分が、大罪を犯した自分が、ああ、なんてことだ。 そんなこと、願うことすら許されるはずがないのに。 (それでもおれは、)
『きみにここにいてほしい』
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