夜の静けさのなか、わずかに開いた押入れのふすま。
 その隙間から覗く闇に、子どものわたしはひどくおびえた。
 深く濃い闇のなかには、わたしを飲み込もうとするなにかが、息をひそめているように思えたのだ。
 親はそんなわたしを笑いながら、手をにぎってくれた。
 わたしは必死で隙間から目を背け、そのぬくもりにすがりつく。
 そうするだけで、わたしは、眠ることができたのだ。



「…でさぁー、加藤さんってば「自業自得でしょ」っていうんだよー?」
「そりゃ加藤さんの言うことがもっともだって」
「えーっ? までそんなこと言うの?」
「あったりまえだってー!」

 けらけら笑いながら、わたしは言った。

「だいたい講義の途中でおもいっきりいびき掻く? 加藤さんに頼りっきりだとあとが大変だよ?」
「ぶーぶー。も加藤さんとおんなじこと言って…」
「いや、だれだって思うよ」

 ちぇー、と聖は子どものようにすねた顔でくちびるを尖らせて見せた。
 アイスティーのストローに口をつける彼女を見やりつつ、わたしもおなじようにアイスコーヒーを一口飲んだ。
 ファミレスの一角、窓際の席にわたしたちは向かい合って座っていた。店内は冷房が効きすぎていて、すこし寒い。

 なぜわたしたちがここにいるのかというと、答えは簡単。休講だったのだ。
 そうと知らなかったわたしは、おなじように休講を知らずにやってきた聖と鉢合わせ、なんとなくそのまま近くのファミレスへ入ったのだった。

「にしても今日はあっついねー」
「うん。昨日は雨が降って、あんなに寒かったのに」
「降ったりやんだり変な天気だよね。これはあれかね。お日さまと雲がケンカでもしてるのかね」
「なにそれ」

 また変なことを、と笑うわたしに、聖もひじをついて笑う。
 彼女はこうしてたわいもない冗談を口にする。話し上手で相手を飽きさせないから、声をかけてくるひともあとを絶たない。
 なにより、かなりの美形。エキゾチックな顔立ちと色素の薄い髪と瞳は、否応なしに人目を引く。
 頭の回転が速くて運動もいけるらしいし、ほんとうに羨ましい限りだ。

「聖が男のひとだったらよかったのに」

 思わず口走った言葉に、自分で驚く。
 見ると、聖もきょとんとしていた。
 わたしは急に気恥ずかしくなって目を逸らした。

「や、ごめん。なんていうかあの…そう、男のひとだったら、さぞかし女の子にもてただろうなぁー、と」
「…べつに男じゃなくてももてるよ?」

 聖が、にやり、と擬音のつきそうな顔で笑う。

「え?」
「佐藤さん佐藤さん、って。女の子たちがそれはそれはやさしくしてくれるの。もー、みんなかわいいったら。佐藤さん感激」
「…なに、それ」

 わたしは笑おうとした。
 でも、胸のうちを一瞬で黒く塗りたくった感情が、邪魔をする。
 口端がひきつりそうになって、戸惑う。
 なに、これ。

「……?」
「あ、な、なんでもない」

 けげんそうな聖に笑ってごまかす。
 さっきの聖のセリフから想像した、女の子たちに囲まれる彼女。それを思うと、黒い感情が、いっそう深まる。
 あれ…あれ?
 なんか、おかしい。これは、なんか、変だ。
 聖の笑顔が、いやだ。聖のさっきの言葉が、いやだ。聖が女の子と仲良くするのが、いやだ。聖が―――わたし以外、と。

(ま、って。ちょっと、まって。なに、)

 これじゃあ、まるで。

「ちょっと、? ほんとにどうしたの?」

 突然俯いて黙りこんだわたしを、聖が心配そうに覗き込んでくる。
 わたしは答えられなくて、首を左右に振った。

 黒は、闇だった。ふすまの隙間の、闇だった。
 覗きたくなくて、でも、それがなんなのか気になってしかたない。
 怖くて、怖くて、正体を確かめることもできないのに。

(逸らせ、逸らせ、目を逸らせ)

 見ればぜったい、後悔する。
 だから。

(でも、)

…」

 戸惑った気配。聖の、不安そうな声が聞こえる。
 わたしはなぜだか泣きそうになった。

(すがる手もないのに、どうやって目を逸らせばいい?)


自覚する前にいそうだった



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up data 07/07/17