ふいに浮かんだ感情はぼんやりしていた身体を簡単に操って、わたしに思いも寄らぬ行動を取らせた。 ふしぎそうな目がこちらを向いたとき、わたしは文字通り凍りついた。 帝劇2階の、図書室の片隅。偶然居合わせたわたしとマリアさんは、互いに時間を持て余していたこともあって、その場で他愛ないおしゃべりに興じた。 マリアさんはむかしからあまりしゃべるほうではなく、今まで世間話なんてものをしたことはほとんどない。 ここ最近雰囲気の変わった彼女は、そんな些細なところにも変化を見せていた。 彼女だけじゃない。この帝劇に勤めるひとたちはみんな、どこかがなにかしら変わってきている。 それが、最近ここへ入ってきた1人の男がやり遂げた仕事だった。 「…?」 「あ、え…っと」 焦って言葉が出ない。 手袋越しでは体温なんてわからないだろうけれど、わたしの身体は風邪でも引いたように熱く、てのひらは汗ばんでいる。 無意識で、いや無意識だったからこそ、恥ずかしい。 だって、なんの理由もなく、打算でもないということは、ほんとうにわたしが、ただそうしたい≠ニ思ってやったことだという、なによりの証拠ではないか。 羞恥心で死ねそうだ。 わたしのいささか唐突すぎる行いに、マリアさんは困ったように、けれど振り払うでもなくわたしを見つめていた。(あれ?)(あれれ?) こんなところにも、変化。 以前の彼女は、手だけではなく、身体のどこも他人に触れさせるようなまねはしなかった。 肌を見せることすら、嫌っていたようなひとだった(はず)。 わたしが(、ほかのだれもが)、できなかったことを、あの男はたやすくやってのけた。その事実がわたしに醜い感情を生ませる。 どうして、わたしでは、だめだったのか。(そんなの当たり前だとわかっているけれど) 「ご、ごめんなさい」 触れた手からわたしの醜さがばれてしまいそうで、あわてて放す。 マリアさんは戸惑いの表情を浮かべたまま、「かまわないけれど」と答えてくれた。 すこし前までの、あの、氷のようなまなざしはない。あれは溶けて消えてしまった。溶かしたのはあの男の熱だ。おそろしく熱い、たぎるようなあの。 「…、」 そっと、なぜかためらいがちに、マリアさんが手を伸ばしてきた。 頬に触れる手袋の感触。その向こうに彼女の指があるんだと思うと、泣きたくなった。 「どうしたの? そんな顔をして」 「な、んでも、ありません」 「……あなたはむかしからそうね。いつも、大事なことはだれにも言わない」 「…マリアさんは、変わりましたね」 え、という口の形でマリアさんは止まった。一拍。彼女が照れたように微笑したので、わたしは耐え切れなくなって立ち上がった。 「あの、じゃあ、わたし行きます」 「もう?」 「はい、仕事が…ありますので」 「…そう。じゃあ、また」 「はい、また…」 わたしはマリアさんに背を向けて、図書室を後にした。 あの男の熱がマリアさんの凍てついたこころを溶かしたのだとしたら、それはとてもよろこばしいことで(、でもとても妬ましい)。 だけれどわたしにできることなんて、せいぜい演算機を使っての情報収集くらいで、そんなのは訓練すればだれにだってできることで。 だから結局、マリアさんにとってわたしは、たぶんその程度の存在でしかなくて。 彼女の熱になりたかった。彼女を溶かす熱になりたかった。あの手袋越しでもわかるほどに、熱いなにかになりたかった。(そんなの、叶うはずもないけれど) |