初めて来たときも思ったけれど、この街はほんとうにきれいだと思う。
 さまざまな花々。広場の絵描き。木々も水も風ですら、色をまとっているようだ。
 でも、ひとたび道をまちがえれば、そこはまるでべつの世界。
 薄暗く寒い裏側。灰色に塗られた場所。
 物事にはかならず表と裏があるんだ、と皮肉げに笑った顔を思い出した。


温度の裏側


 大またで歩く彼女に追いつくには、どうしても駆け足にならなければいけない。
 コンパスのちがいか、はたまた速度の問題か。両方だな、きっと。
 見つめる先には、夏も冬も変わらない、コートを着た背中。
 暑くないのかと訊けば、にやりと笑い返された。「いろいろと隠すものがあるんだよ、あんたとちがってな」―――彼女はいつも意味深な科白を使う。

「うっ…わ」
「…なにやってんだよ、

 なにかの拍子にバランスが崩れる。倒れかけたわたしの身体を、一本の腕が軽々と支えた。
 すこし離れたところにいたはずなのに、すごい反射神経だ。さすがに巴里の悪魔は伊達ではない。

「す、すみません、ロベリアさん」

 降ってきた呆れた声に顔をあげると、予想とは裏腹にどこか楽しげな目と合った。
 最近このひとは、こういう表情をすることが多くなった。ぼんやり思う。それはだれのおかげだろう。浮かんだ同郷の男の顔に、胸のうちが苦くなる。

「なにもないところで転ぶなんて、エリカのドジがうつったか?」
「失礼ですね。エリカのドジはむしろ、目の前にある木にぶつかるレベルです」
「まあそりゃそうか」

 さり気なくおたがいひどいことを言っているが、エリカならそれくらいやりかねない。
 あの赤服のシスターは、いろいろと規格外なところがあるから。
 わたしはロベリアさんから離れると、「それに、」と続けた。

「ロベリアさんの歩くのが速すぎるんですよ」
「おまえが遅いだけだろ?」
「…コンパスのちがい考えてませんね?」
「ああ、足が短いからか」
「身長の差ですよ!」

 反論しながら、けどたとえおなじ身長でも、きっと足の長さはちがうだろうと思った。くやしいから言わない。
 ロベリアさんは意地の悪い顔でわたしを見下ろしている。こういう表情も様になるから、美人というのはたちが悪い。
 それでもわたしの息があがっているのを見て、その顔を引っ込めるあたり彼女はやさしい。それを言うと、すぐさま否定する上に怒られるから言わないけど。

「そんなに速かったか?」
「…まあ、べつにいいですけどね。ロベリアさんだけじゃないし」

 グリシーヌさんもけっこう速いんですよ、と言うとあからさまに嫌そうな顔をした。犬猿の仲≠体現しているような2人だから、当たり前だろう。
 かつて勤めていた帝撃にも似た関係のひとたちはいたが、ここまで冷え切っていない。むしろあっちは仲が良すぎて反発するほう。こっちは完全に、おたがいを理解できないことから来る不仲だ。

「花火さんと歩くときは楽なんですよ。むしろわたしが合わせるほう。コクリコはあっちこっちに行っちゃうんで、追いかけるのが大変です。エリカは言わずもがな」
「ああ…おなじニッポン人同士だからか?」

 あえて後ろの2人を流すロベリアさんは利口だ。とくにエリカは、噂をするだけでも気力を使う。いい子なのはいい子なんだけど。

「どうなんでしょう。日本人も速いひとは速いですけど」

 しゃべりながら歩き出す。ロベリアさんも、今度はすこしゆっくりめ。

「ふーん? 結局ひとそれぞれ、ってことじゃないか」
「そうですね」

 グリシーヌさんはたぶん、性格だ。でも、ロベリアさんはすこしちがう。
 こうして気づきさえすれば、ちゃんと合わせてくれる。無関心に見せかけて周りをよく見ているひとだから、気づかないのは、たぶん、慣れていないだけ。
 だれかと並んで歩くことに。
 そういうひとがいたとしても、きっとろくでもない理由だったんだろうな。
 とっさにつきかけたため息を飲み込んで、隣を見た。

 あ、また。
 すこし前に行ってしまったロベリアさんを見て、苦笑した。
 彼女の揺れる右手に、ふと思いついて駆け寄る。
 気配を感じて振り向いたロベリアさんに笑いかけてから、その右手を取った。

「―――なっ」
「はい?」
「なにしてんだおまえ!」
「なにって、手をつないでるんですけど」
「…放せ」
「いやです」
「あのなあ!」

 振り払おうとするロベリアさんの腕を抱き込んで阻止する。

「こないだエリカと腕組んでたじゃないですか」
「あれはあいつが勝手にやっただけだ」
「じゃあわたしも勝手にやっていいですよね」
「なんでそうなるんだ!」

 あきらめるしかないと悟らせるために、もう一押し。

「ロベリアさんって、油断するとすぐ先に行っちゃうから、追いかけるの大変なんですよ? それにほら、もうすぐシャノワールですし、そこまでの辛抱です」

 にっこり笑顔つきで言うと、ロベリアさんは心底嫌そうに顔をゆがめながらも抵抗をやめた。
 シャノワールまで、という条件がついたことで、彼女はあきらめることにしたらしい。
 それもわたしの計算のうち、ということはロベリアさんもわかっているだろうけど。

 つないだ右手がこわばっている。
 こういう触れ合い方には、慣れていないんだろう。べつの意味の触れ合いなら、ここまで動揺しなさそうだ。
 物事には表と裏がある。それは真理だと思う。
 でもロベリアさんはわかっていない。
 裏側がかならずしも、灰色に塗られたものばかりではないということ。
 隠されたものが、研ぎ澄まされたナイフとは限らないということ。

(…いや。見方によれば、そういうことにもなるのかな)

 つながれた手の温度。その裏側にあるものに、気づいてほしい。おなじくらい、気づかないでいてほしい。必要ないと切り捨てられるのは、怖いから。
 ―――でも。

?」

 見下ろしてくる怪訝そうな視線に、笑い返す。

「なんでもありません」

 願わくば、この温度の裏側が、あなたにとってやさしいものであるように。

(そうありたいとは、思っているのだけど)



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up data 07/05/16
おとなしく手をつながれてるって時点で
見え隠れしているアレ。