ルーブル美術館の一件以来毎日見かけるようになった銀色に、わたしはひたすらうろたえていた。
 なぜかは知らない。ただそれを視界に入れるのさえ、だめだった。
 彼女を見るたび、心臓が一瞬、掴まれたように収縮して、爆ぜる。
 のどもとからこみ上げるなにかに何度も戸惑い、慣れることはない。

 怖いと、思った。
 たぶんわたしは、彼女に、彼女という存在に、大切なものを脅かされている。
 かかわり合いにはなりたくない。危険、だ。
 なかば本能的にそれを悟って、だからわたしは彼女にだけは近づかないように努めていた、のに。

「よぉ」

 シャノワールからほど近い、アパートメントの一室。
 その扉を開けたのは、部屋の主ではなかった。
 わたしはとっさに目を逸らし、室内を見やる。
 明かりのついていない部屋は夜なので当然暗く、目的の人物は見当たらない。

「隊長さん、は」
「寝てるよ」

 口端を吊り上げた瞬間、彼女の―――ロベリアさんの氷のような瞳がゆがんだ。
 おもしろがるような、冷徹な光り。
 わたしはなるべく目を合わせないように、手にした書類に集中した。

「そう、ですか…。では出直してきます」
「なんだ、それだけか?」

 ロベリアさんのからかう口調は、グリシーヌさんがもっとも嫌うものだ。
 と言っても、グリシーヌさんはロベリアさんの存在自体を(むしろ憎んでいると言って過言ではないほど)嫌っているので、もっとももなにもないだろうけど。

「もうすこし反応しろよ。夜中に男の部屋に女がいるんだぜ? それも、あんたのお仲間の」

 腕組して壁に寄りかかるロベリアさんの、見下ろしてくる視線を感じながら、なんなんだ、と眉根をよせた。

「隊長さんの部屋に隊員がいることは別段めずらしくありませんよ」
「…へえ。トーキョーでもそうだったのか?」
「たまに。わたしも仕事の関係でもっと遅い時間帯に来ることもあります」
「ふん、それでなにもなしか」
「おたがい仕事が生きがいですから。ご期待に沿えず残念ですが」
「なんだ、一応アタシが言いたいことは伝わってるわけか。ずれた答え返してくるから、あんたもあいつとおなじで救いようのない仕事バカかと思ったけど」

 あいつよりはマシだね。―――からかう声はけれど冷え切っていて、なんの感情も見せない。
 だから、いやなんだ。わたしは早くこの場を立ち去りたくてたまらなかった。
 声を、温度を、存在を感じるたび、心音がかき乱される。
 頭のなかがぐるぐる回って、それなのに思考はほとんどできていない。
 冷静な判断がくだせないのは致命的だ。とくに、このひとの前では。
 知らず力のこもった指先を、ふいに、白く冷たい手が掴んだ。
 驚いて顔をあげると、底冷えするような氷の双眸が映った。

(―――あ、まずい)

 囚われ、る。
 一瞬、気のせいかロベリアさんの目が見開かれ、次いで、するどく細められる。
 嘲るようにルージュのくちびるがゆがんだ。

「へえ」
「な、に、」
「なるほどね」

 わけのわからない納得をして、ロベリアさんがわたしの手を引く。
 抵抗しようとしたのに、なぜか身体に力が入らず、わたしはされるままに隊長さんの部屋へ引っ張り込まれ、壁際に押しつけられた。

「なに、す…」
「あんたさ、」

 予想以上に近くにロベリアさんの顔があって、言葉が途切れた。
 どう、しよう。これは、まずい。頭のなかで警鐘がなる。
 逃げなければいけない。これ以上ここにいたら、取り返しがつかなくなる。
 明確なものはなにひとつわからないのに、ただ危機感だけが募っていく。

「気づいてるか?」

 なにを、とは訊き返せない。
 聞いてはいけない。彼女の言葉の、その先は。

「自分がいま、どんな顔してんのか」

 近づいてくる、顔。目。吐息。
 首筋があわ立つ。

「あんた、もしかしなくても―――」
「やめ、て」

 かろうじて動く口で抵抗する。
 氷の色が、ますますおもしろがるように細められた。

「へえ、気づいてたんだな」
「し、しらない」
「じゃあなんでそんな目ぇしてんだよ?」
「なんの、こ」
「物欲しそうな目」

 もはや触れるか触れないかのところまで迫ってきていたくちびるが、そう言った。

「言っちまえよ」

 ロベリアさんがしゃべるたび、吐息がくちびるにかかる。

「ほら」
「や…ッ」

 それが全身に言いようのないなにかを走らせる。
 怖くてたまらず身をよじると、舌打ちが聞こえた。
 不快をあらわにしたそれに、おもわず身体がすくむ。

「時間切れだ、―――

 呼ばれて直後、なまぬるい温度がくちびるにぴったりと押しつけられた。
 わたしが見開いた目と、熱のない冷めた目が交わる。
 嘲りを含んだそれに、自分の姿が映っていた。
 真っ白になった思考の向こうで、悟る。

(こわれた)

 目尻からこぼれた涙が頬を伝って、暗がりへと静かに落ちていった。


硝子の(は、こわれてきえた)



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up data 07/05/20