重い沈黙のなかで、自分のふるえた吐息だけが聞こえる。目頭から熱いものがあふれ、まばたきするとするりとこぼれ落ちた。 見られたくなくて、両手で顔を覆う。 人前で泣くのはひさしぶりだな、なんて、悲しいのにそんなのん気なことを考える自分が可笑しかった。 「これ、なに?」 日曜日の昼下がり。2人で映画に行った帰り、さんの家に寄った私は、彼女の部屋で見慣れないものを見つけた。 それは銀色のチョーカーだった。シックなデザインで、さんの雰囲気によく合うものだが、アクセサリーのたぐいを身につけないさんには違和感があった。 すると、さんは何気ないふうに、とんでもないことを言ったのだ。 「ああ、このあいだもらったんだ」 「だれに?」 「大学の友だち。誕生日プレゼントって」 「―――」 持っていたチョーカーを、おもわず握りしめる。 「…たん、じょうび?」 自分でもおどろくほど乾いた声だった。 さんは空気が変わるのを敏感に察知して、戸惑いを浮かべる。 「誕生日って?」 「え…あの、」 「さんの? いつ?」 「おととい…」 呼吸が止まった。湧き上がったそれはなんというのだろう。 怒り、嫉妬、落胆、名前のない黒い気持ち。 ぼやけた視界の向こうで、さんのおどろいた顔が見えた。 「私、知らないわ」 「え?」 「さんの誕生日。去年もおととしもその前も、」 一緒にいたのに。のどが詰まって最後の部分は声にならなかった。 そりゃあ、そのころは恋人なんて関係ではなくて、ただの友だちだったけど、それでも誕生日くらいは教えてくれてもいいはずだ。 それなのに私はなにも知らなくて、でも大学の友だちは知っていて。 手のなかのチョーカーを、いっそ捨ててしまいたい衝動に駆られた。 だって、そんなのってない。 「なんで教えてくれないの」 ふるえた声に、さんは困惑した様子で、ぼそぼそと答えた。 「訊かれなかった…から」 「―――ッ、訊かれなくても、言ってくれたらよかったのよ!」 さんを相手に、こんなに声を荒げることなんていままでなかったから、さんはびくりと肩をふるわせると、一瞬、泣きそうな顔をした。 泣きたいのはこっちだ。どうして私は知らなくて、私の知らないべつのだれかが知っているのだ。 どうして私には教えてくれなくて、そんな、知り合ったばかりのような他人に。 それとも私は、さんにとって他人以下なのだろうか。 そんなこと、あるわけない。そう思いながらも疑念を振り切れずに、私はくちびるを噛んでうつむいた。 だって私は、なにも知らない。 さんの好きな色も、食べ物も、映画の好みだって、いつも私に合わせてくれて、さんは笑って、私の話を聞くだけ。自分のことはなにも言わない。 私のことを優先してくれて、気遣って、大事にしてくれているのはわかる。 だってさんはいつも、私が笑うとほんとうによろこんでくれるから。 だから私も、うれしくてもっと笑いたくなる。 けど。 顔を隠していた手の甲で涙を拭く。でもそれは止まらない。 私はさんに背を向けて、目を閉じた。 「蓉子さん…」 さんの声は、かわいそうなくらいおびえていた。 不安と、恐れと、悲しみと。痛みでいっぱいな声に、いったいどちらが傷ついているのかわからなくなった。 「…ごめんなさい…」 か細い声が、いまにも泣き出しそうだ。 「……どうして謝るの?」 「だって…蓉子さんが泣いてるから」 「…私が泣いている理由、わかる?」 さんは押し黙った。 「理由もわからないのに、謝らないで」 「…うん…ごめん」 まるで私のほうが傷つけているみたいだ。たぶん、さんはほんとうに傷ついているのだろう。 それはなぜ? 私が泣いたから? 怒鳴ったから? 背を向けたから? だけど私だって痛い。なにも教えてくれないことが、それ以上近づくなと言われているみたいで。 さんが私の知らないところで、私の知らないことをだれかに話していることが悲しい。 「蓉子、さん…」 さんが呼ぶ。また謝るのだろうか。ごめん≠ヘもう聞きたくなかった。 「嫌いになった…?」 ずるい。 その声を聞いた瞬間、思った。 ずるすぎる。 なにも話してくれないくせに、どうしてそんなに、私に対する気持ちだけは、包み隠さず見せるのだろう。 「…蓉子さん…」 そんな、すがるように呼ばないでほしい。 なにもかもあいまいなまま許してしまいそうで、いやだ。 だってここで妥協したら、あなたには一生近づけなくなる。 私は言葉の代わりに首を振って、否定した。 「私は、」 かすれた声が耳障りで、つばを飲み込んだ。 「私は、あなたのことを、知りたいの」 止まりかけていた涙が、自分の言葉でまたあふれ出した。 そうだ、知りたいのだ。さんのことなら、だれよりもくわしくなりたい。だれも知らないようなことも、ぜんぶ私だけがひとり占めにしていたい。 「さんが私を大事にしてくれるように…私もさんを、」 途中で詰まりながら言う。 わかってほしい。私がほんとうに願うことがなんなのか。 「大事にしたい」 私のすることでさんによろこんでほしい。だから私は笑うのだ。さんをよろこばせられる、それだけが私が知っているゆいいつの方法だから。 それしか知らないから。 「…うん」 さんがうなずいた。何度もうなずいて、それから私の背中に、額をくっつけて言った。 「ありがとう」 |