聖夜の奇跡なんて呼ぶのはありふれていてつまらないから、やはりそれは、たんなる偶然でいいのだと思う。



聖なる夜に約束を



 耳慣れた音を立てて電車がゆっくりと走り出す。車内の蛍光灯の明かりの向こうには、いくつもの見知らぬ顔。このなかのいったい何人が、今日という日を楽しく過ごすのだろう。

 吐き出した息の行方を視線で追うと、真っ暗な空が見えた。星は見えない。月だけがぽっかりと、漆黒に浮かんでいた。
 昼間はあんなに晴れていたのに、こんなものなのか。ふだんは星なんて気にもしないのに、今日はいやに感傷的だ。そんな自分にちいさく笑う。

 クリスマスイブの夜に、ひとりで駅のホームのベンチに座っているなんて、なんだかさみしい女みたいでいやだけど、なぜかこのまま帰る気にはなれなかった。
 帰ってもすることはないし、終電ぎりぎりまでここで過ごしてみようか。

 そう思って腕時計に目を落とすと、ちょうど12時を回ろうとしているときだった。こころのなかでカウントする。あと10秒。
 9、8、7、6、5、4、

(さん、にー、いち、)

「…メリークリスマス」
「メリークリスマス」

 自分に向けた戯れのつぶやきに、思わぬほうから声が返ってきた。
 驚いて顔をあげると、そこにはよく知っている、けれど最近はまったく会わないひとがいた。

「…蓉子さん?」
「こんばんは、さん」

 わたしはベンチから腰をあげて、近づいてくるそのひとを見つめた。
 蓉子さんは驚いているわたしにひとつほほえんで、わたしの隣に腰掛ける。つられて、わたしもベンチに座りなおした。

 「ひさしぶりね」「うん、ひさしぶり」―――そんな会話から始まって、大学でのあたらしい生活や友だちのことを話した。聖さんのことも話すと(と言ってもこのあいだ友だちらしきひとと一緒にいるのを見かけた程度だけど)、蓉子さんは安心したようだった。

「やっぱり気になるんだ?」
「それはそうよ。高校時代はだいぶ世話を焼かせてくれたひとだもの」
「いろいろあったらしいもんね」

 何気なく口にしたことは、どうも微妙な話題だったらしい。蓉子さんの困ったような微笑に、わたしはあわてて話を変えた。

「そういえばさ、江利子さんはどうしてるか知ってる?」
「さあ…。あいかわらず、例の彼を追いかけているとは思うけど」
「例の彼って…花寺の?」
「たぶん。でも、きっと元気よ」

 あやふやな答えに、わたしは首をかしげた。高校時代、3人は薔薇さまと呼ばれる生徒会役員だった。だからわたしも、まるで当然のように、彼女たちがずっと一緒にいるイメージを持っていたけれど。

「会ったりしてないんだ?」
「卒業してからは数えるくらいね。大学もちがうんだから、しかたないわよ」
「さみしくなったりしないの?」
「そんな関係じゃないわ」

 わたしの問いに、蓉子さんは微苦笑で答えた。ほんとうにそのようだ。わたしはなんだかふしぎな、でもよく考えてみれば当然のような、奇妙な気持ちになった。

「ずっと一緒ってわけにはいかないんだね」
「えぇ…そうよ」

 うなずいた蓉子さんが、ふっと目をほそめた。遠くを、あるいはまぶしいものを見るような横顔に、わたしもついせつなくなってしまった。

「なんか、ふしぎ」

 ぽつりとつぶやいて、虚空を見やる。横に視線を感じて、言葉を続けた。

「ちょうどクリスマスになった瞬間に蓉子さんと会ってさ、むかしの話なんかしちゃって。すごいよね」
「…そうね」
「ただ偶然が重なっただけなのに、なんだか奇跡みたいな気がして。人間って単純」

 いや、わたしが単純なのかな。―――笑い合おうと蓉子さんに顔を向けた。けれど思わぬ真剣なまなざしに、浮かべかけた笑みが消えた。

「……奇跡、ね」
「…よーこ…さん?」

 蓉子さんは足元に目を落とすと、ちいさく笑った。まるで自嘲するみたいなしぐさに不安になって、顔を覗きこむように身をかがめると、蓉子さんのくちびるがふるえているのに気づいた。

「寒いの?」
「…泣きたいの」

 ふいに重なった視線に、心臓が跳ねた。このひとのこんな―――泣くのを堪えているような、こんな顔を、わたしは見たことがない。
 わたしの知る水野蓉子とはまるでちがっていて、でも、これがほんとうの彼女のような気がした。

「どう、したの? なにかあったの?」
「なにもないから、悲しいのよ」
「……、ごめん、よくわかんない」

 囚われたように視線を逸らせないわたしに、蓉子さんは笑ってみせた。

「そうね。さんは、わからないと思うわ」
「どういう、意味?」
「あなたにだけはわからないように、ずっとそうしてきたから」
「わかるように言って」
「わかったらいけないのよ」
「わかってほしいから、悲しいんでしょ?」

 深い考えなんてない、ほとんど直感だった。蓉子さんは虚をつかれたような顔をして、一瞬、瞳をさまよわせた。
 なにかを言おうと口を開いた蓉子さんをさえぎったのは、ホームに流れたアナウンスだった。

――まもなく、電車が参ります。――

 蓉子さんは立ち上がって、白線のほうへ歩いていく。

「蓉子さん、」

 呼びかけても振り返らない。わたしも追うようにベンチを離れた。

「蓉子さん、さっきのって―――」
「会いたいと思っていたのよ」
「え?」
「あなたに」

 振り向いた蓉子さんの目は怖いくらいにまっすぐで、わたしは口を閉じた。表情がない。いや、真剣すぎるから、無表情に見えるのだ。
 蓉子さんは視線を線路のほうへ落とすと、つづけた。

「会えたらいいと、ずっと。だからあなたを見つけたときは、ほんとうにうれしくて…悲しかった。だって、」

 言葉を切って、蓉子さんは瞑目した。口端がつりあがる。口紅をつけていることに、そのとき初めて気がついた。

「私がほんとうにほしかったものを、思い知らされたから」

 憂いを帯びた声音に、なにも言うことができなかった。彼女がなにを言おうとしているのか、わたしには掴み切れない。
 轟音を立てて、電車がすべりこんでくる。ブレーキの音。蛍光灯の明かり。車内の顔という顔。風に煽られて揺れる蓉子さんの髪を見ていた。

「     」

 電車の音にまぎれて、蓉子さんの声が聞こえた―――気がした。

「え…?」

 電車のドアが開き、乗客がぞろぞろと出ていく。不ぞろいな足音のなかで、蓉子さんが軽く笑った。

「ごめんなさいって、そう言ったのよ」
「…なんで、」
「変なことを言って、困らせてしまったみたいだから」
「うそ」
「……」
「ごめんなんて言ってない。蓉子さん、さっき…」
「忘れて」

 静かな声が、わたしの言葉を断ち切った。

「勝手に言っておいて≠チて思うかもしれないけど。おねがい、忘れて。クリスマスだから、おかしくなっているのよ」

 目を伏せた蓉子さんの横顔は、涙はないのに泣いているようで、わたしのほうが泣きたくなってしまった。
 駅員の甲高い笛の音がひびき渡る。蓉子さんが乗り込む。わたしはその場を動けない。でも。

 振り向いた蓉子さんの顔を見て、わたしはとっさに手を伸ばした。


 ゆっくりと動き出した電車が、だんだんと加速していく。通り過ぎていく光りを尻目に、わたしは掴んだ右手を見下ろした。

「…、さん?」
「ずるい」

 力いっぱい引っ張ったせいで、バランスを崩した蓉子さんはそのままわたしの腕のなかに納まった。
 突然のことに身動きもできない様子の蓉子さんに、さらに言い募る。

「自分ひとり、言いたいこと言ってはいさようなら≠ネんて、そんなのずるいよ。そりゃ、気づかなかったわたしも悪いのかもしれないけど、それにしたって勝手すぎる」
「……。ごめんなさい」

 蓉子さんはもう一度「ごめんなさい」とつぶやくと、顔をうつむけた。
 掴んだ手はやわらかくて、肩も細く頼りない。触れてみて初めてわかった。彼女はわたしが思っているほど強いひとではない。
 わたしは彼女を、りんとしたイメージそのままに見ていた。でも、実際はちがっていたのかもしれない。

「考えるから」

 手を離して、ただしく向き合って、しっかりと言った。

「ちゃんと考えるから。あなたのこと。これからのこと」
「…期待させないで」

 しぼり出すような声が抵抗する。蓉子さんのいまだに伏せられた目が、揺れているのがわかった。

「期待は、してもいいよ」

 息を呑む気配。一拍置いて、視線があげられる。目が合って、わたしは笑った。

「わたしね、いやじゃない。びっくりしてるし、どきどきしてるけど、いやだとは思わない。だから…うん。期待していい」
さん…」
「それとも、遅すぎる? もう待てない?」

 首をかしげて訊ねれば、蓉子さんから苦笑が返される。

「ずるいのはあなたのほうよ。そんなふうに言われたら、私は待つしかないじゃない」

 その苦笑もすぐに掻き消えて、ふるえた声が「待ってる」とつぶやいた。
 それきり、わたしたちのあいだに言葉はなく、つぎの電車が来るまで、ただ互いの手を握り合っていた。



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up data 06/12/25
すでにもうそれが答えだと思わないか。