君子危うきに近寄らず。
 むかしのひとの言葉は聞くべきですね。
 あー…いたた。


喧嘩の仲裁は計画的に


 さかのぼること今から10分前。
 私は祐巳と一緒に幼稚舎の送迎バスを待っていた。
 祐巳が覚えたての『まりあさまのこころ』を口ずさんでいるのを萌えながら見守っていると、突然近くでふたりの園児が取っ組み合いを始めた。

 髪留めでおでこを全開にした子と、ちょっと日本人離れした顔立ちの子が、たがいにでこちん≠セのアメリカ人≠セのと罵り合っている。
 私はびっくりしている祐巳をあわてて後ろへ下がらせて、ほかの園児に先生を呼びに行かせた。

 しかし喧嘩は収まるどころかさらにヒートアップしていく。
 このままじゃ怪我人が出るし、やっぱ止めたほうがいいよな。
 身体は子どもでもこころは(一応)大人である。
 なにが原因であれ、ひとまず引き離したほうがいい。
 そう判断した私は、おたがいの頬をつねり合っているふたりに近づいた。
 ―――それがいけなかったのだろう。


おねえちゃん、だいじょうぶ?」
「あー、うん。大丈夫」

 心配そうに覗き込んでくる祐巳に笑い返して、私は氷を当てていた頬をさすってみた。やっぱり痛い。
 思わず顔をゆがめた私を見て、祐巳が泣きそうな顔をますます泣きそうにゆがめる。やさしい子だなぁ。

 繰り返しになるが、私は身体は子ども、こころは大人であった。つまり、年上らしきふたりの取っ組み合いに割って入ったはいいものの、突き飛ばされ頬を打たれたのであった。
 かっこ悪いことこの上ない。
 こういうとき、ちょっぴり自分が情けなくなる。
 できていたことができなくなるってのは、思ったよりも精神的にくる。
 ボケかけた老人と似たようなジレンマを感じていると、女性と女の子がこちらへ近づいてきた。
 例の取っ組み合いの当事者のひとり、でこっぱちのほうだ。

「怪我は大丈夫?」
「あ、はい、なんとか…」
「ほら、江利ちゃん」
「……」

 おそらく母親だろう女性に背を押され、前に出てきた女の子――えりちゃんと呼ばれた――は、むすっとした表情で私を見つめたあと、口を開いた。

「ごめんなさい」

 さっき先生に無理やり喧嘩相手と握手をさせられたのが尾を引いているのだろう。非常に不満そうだ。「えりちゃん」と母親がたしなめるように呼ぶ。
 まあ、喧嘩の直後に(いくら直接の喧嘩相手ではないとはいえ)謝れといわれても、この年代じゃあ難しいだろう。
 いや、大人になったって謝る行為は難しいものだ。
 私はへらりと笑いかけた。

「うん、いいよ」

 そもそも体格差を考えず割って入った私にも責任はある。
 あの激しさからある程度の怪我も予想していたし、本人も悪いとは思っているみたいだから、怒る理由はない。
 やっぱり気にしていたんだろう、女の子は私の反応に拍子抜けしたように肩から力を抜くと、もう一度、今度は素直に「ごめんなさい」と言った。
 母親もそんな娘の姿に微笑んで、自分からも謝罪の言葉を言って、その場をあとにした。

 次に私のところへやってきたのは、もうひとりの当事者と、先生だった。
 先生は私の怪我の具合を見てから、後ろにいた当事者の片割れに――せいちゃんと呼んだ――謝罪をうながした。
 彼女は私の前に押し出されると、むっすりと黙り込んで私をにらんでいる。
 隣にいた祐巳がおびえたように私の手を握ってきた。
 私は安心させるようにそれを握り返して、彼女の様子をうかがった。

 彫りの深い顔立ちだ。日本人離れした容姿は、さぞかしその持ち主に苦労を与えるだろうと思った。
 このくらいの年は、ちょっとした特徴でもからかいの対象になったりする。とくに子どものうちはデリケートだから、よけいに傷つくだろうなぁ。

 さっきの女の子も不満そうだったが、こちらもとても不満そうだ。さっきの子と比べると、なんだか納得のいかないような空気も漂っている。
 なぜ謝らせられるのか、理解できていないのだろうか。
 それでも謝罪を強いようとする先生と、それに無言の抵抗を示す女の子。
 さしづめ、納得できないことをさせられることに反発を感じている、といったところか。

「…私を突き飛ばしたのはだれだっけ」
「あのでこちん」

 間をおかず答えが返ってきた。頭のいい子だ。

「じゃあこれは?」
「……」

 ひょいと当てていた氷をどかして赤くなっているだろう頬を見せた。
 とたんに彼女は押し黙る。
 睨みつけるように私――正確には頬――を見つめ、低い声で答えた。

「…わたし」
「うん」
「……ごめんなさい」

 納得できたんだろう。女の子はちょっとためらってからそう言って、ぱっと身を翻した。
 怒り声で呼び止める先生に「いいですよ」と言って、私も立ち上がった。

「それじゃあ、帰ります」
「大丈夫なの、ちゃん? 迎えに来てもらったほうが…」
「平気です。祐巳も大丈夫だよね?」
「…うん、ゆみはだいじょうぶ。おねえちゃん、ほんとにへいき? いたくない?」
「祐巳が手をつないでてくれたから、痛いのなんか吹き飛んだよ」
「ほんとう?」
「ほんとう」

 よかった、と祐巳は顔をほころばせ、かばんを持って立ち上がった。
 心配そうにしている先生にさようならを言って、ふたりで幼稚舎を出た。
 その夜、私の頬に関して話を聞いた両親は、相手の子を怒ることもなく、「えらかったね」と頭を撫でてくれた。
 べつに撫でられてよろこぶような年ではないけれど、このおひとよし夫婦に誇らしげな顔をさせたことは、うれしかった。

 それにしても、最近の子は激しいなぁ。



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up data 09/01/31