言葉はいらない



 日誌にシャーペンをすべらせながら、私は前の席に逆向きに(つまり私のほうを向いて)座っているさんを見た。
 ちょうどあくびをしていたところに目が合ってしまって、さんは頬をかすかに赤くして、ばつが悪そうに笑った。

「えへへ、ごめん」
「もうすぐ終わるから、先に帰っていてもいいのよ」
「え、や、いいよ、待ってる」
「でも…」
「わたしのほうこそ、朝も寝坊しちゃってちゃんと日直の仕事できなくて…ごめんね?」
「そんなに気にしないで。大丈夫よ」

 肩を落として上目遣いで私を見るさんの顔はほんとうに申し訳なさそうで、まるで叱られた仔犬のようだと、ついちいさく笑ってしまった。
 さんはほんとうに表情豊かで、祐巳さんとならぶほど素直に、惜しげなく内心を見せてくれる。私にはない、そしてとてもうらやましいものを、彼女は持っている。
 さんがその瞳に映すすべての感情を、私は知りたかった。

「? なに?」
「あ、いえ、なんでもないわ」
「ふぅん…??」

 きょとん、と首をかしげるしぐさもかわいらしい。
 祐巳さんや乃梨子も、こういうしぐさをときどきする。
 3人がならんだところを想像していると、さんが可笑しそうに目をほそめた。

「志摩子さん、また笑ってる」
「え? あら、ごめんなさい」
「ふふ。ううん、いいよ。うれしいから」
「…うれしい?」

 うん、とうなずくさんはこころからよろこんでいるみたいで、今度は私が首をかしげる番だった。
 だって、さんをよろこばせるようなことはなにもしていないのに。
 さんにそう言うと、彼女は笑ったまま首を振って、もっと意外なことを言った。

「志摩子さんが笑ってると、うれしいの」
「私が? どうして?」
「だって、去年まではなんだか、すごく息苦しそうだったもの」
「―――」

 とっさに、声が出なかった。
 頭がまっしろになって、指先まで硬直する。
 さんはにこにこと、私の心情をまるで知らないふうに笑っている。

 息苦しそう? …私が?

 なぜだか、泣きそうになった。
 悲しいわけじゃない。それなのに、どうしてこんなに胸が詰まるのだろう。

「だからいまは、うれしいんだ。志摩子さんが笑ってくれてるのが」

 いったいいつから。そう、聞こうとした。でも、言葉が出てこない。代わりに出てきたのは、ただただふるえるだけの吐息だった。
 だって、見ていたのだ。みんなを偽り、いつか消える日のために周りの一切を遠ざけていた私を、この純粋な瞳は、ずっと!
 そう思うと、叫び出したい気分だった。

「志摩子さん、どうしたの? わたし、悪いこと言った? ごめんね? そんな顔しないで」

 私がなにも言えずに黙り込んでいると、さんはようやく異変に気づき、顔を曇らせた。
 あなたが謝ることじゃない。そう言いたくて、でもなかなか声が出なくて、私はもどかしく首を振った。

 うれしいとか、悲しいとか、しあわせとか苦痛とか、形ある言葉では表せないものが、私の胸をいっぱいにしている。
 この、いまの気持ちが、そのままぜんぶ彼女に伝わればいいのに。
 言葉がこれほど邪魔だなんて、思いもしなかった。

 のどが貼りついたようにうまく声を出せない私の髪を、さんがそっとなでる。そのやさしい手つきに、私はますます言葉を失う。
 秘密の重さにあえいでいた私を、あなたは、どう感じたのか。愚かだと思っただろうか。それとも、哀れだと?
 卑屈な考えがいくつも浮かんでは私を痛めつける。それがもしも彼女と私を結ぶものだとしたら、それはなんてやさしくて苦いことか。

 どうか、どうか、彼女がいまここにいるのが、純粋な好意でありますように!

 そんな私の祈りを知ってか知らずか、さんはきゅっとくちびるを噛むと、意を決したように立ち上がった。

さん?」

 おどろいた私の声は、みっともなく滲んでふるえていた。
 さんは私と彼女を隔てていた机を回りこみ、私の横にひざをつくと―――私を、抱きしめた。

「えっ…」
「……」

 さんは無言で、でも腕だけはしっかりと私の背に回す。
 あたたかい、力強い腕に抱かれて、私は胸が締めつけられた。
 言葉なんていらないと、ぬくもりが言っていた。
 形でなくていいと、力強さが。
 一瞬でも彼女の好意をうたがってしまった自分が、はずかしかった。
 そうだ、さんはいつだって純粋で、まっすぐで、素直で、私はそんな彼女が好きだったのに。

 私は「ごめんなさい」と「ありがとう」の気持ちをこめて、さんの背に手を回した。
 耳元で、さんの微笑する気配がした。
 自分のすぐ横にある、やさしくてあたたかい笑顔を想像して、私はゆっくりと目を閉じた。



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up data 06/10/21