「生きていたのね」

 あの大混乱からどれくらい経ったか。ある日、数え切れないほど増えた墓標のひとつの前で再会した彼女は、初めて見るようなやわらかい微笑を浮かべていた。
 それだけで、すべてわかった気がした。


夕空の下できみに請う


「…ほんとうに、久しぶりね」

 ザギヴさんは言いながら、墓碑の前にひざをつき、いつものように祈りはじめた。
 ちがうのは、その横顔に、おだやかなものが浮かべられていること。
 わたしはザギヴさんから目を離し、意味もなく碑銘を見つめて答えた。

「そうですね」
「……もう、会えないかと思ったわ」

 短い祈りのあと、ザギヴさんは会話を続けた。
 以前なら、そもそも彼女から話しかけてくることはほとんどなかったというのに。

「ちょうど、故郷のほうに帰っていたんです。母が倒れたもので」
「お母さまが? …あなたの故郷って…」
「テラネからほどないところです。なにもない、退屈な村ですよ」
「…お母さまは大丈夫だったの?」
「ぴんぴんしてました。わたしに会いたいがための父の方便だったようです」

 ザギヴさんはすこし笑って、「でもそのおかげでなんともなかったのね」とそう言った。
 わたしは黙ったまま、ザギヴさんの変化について考えた。
 声がおだやかになった。顔も、以前まで落ちていた影はなりを潜めている。微笑する姿をはじめて見た。こうして話しかけてくるのも、いままでならなかった。
 わたしはなにも知らない。でも、わかる気がした。

「世界は救われたんですか」
「えぇ」
「…あなたは救われたんですか」
「…………ええ」

 長い沈黙があったけれど、たしかな肯定が返ってきた。
 わたしは目を閉じた。浮かぶのは、この墓標の前で話し込むザギヴさんと、ひとりの冒険者。
 いまでは勇者と讃えられるそのひとの前で、ザギヴさんは、笑っていた。

「勇者は世界を救い、そして旅立つ」

 ぴくりと、しゃがんだままのザギヴさんの肩が震えた。

「…それがお約束ですよね」
「…そうね」
「この世界を救った勇者は、どこで、なにをするんでしょう」

 風が出てきた。見上げると、夕空が向こうからやってくるのが見えた。

「わからないわ」

 すこししてザギヴさんが言った。

「でも、きっとだれかを救うんでしょうね」

 彼女はどこまでもおだやかで、やさしくて、声ですら微笑しているようだった。
 その背中を見つめているわたしは、泣きそうだった。
 冷たい風が頬をなでる。
 わたしは一度深く呼吸して、おもむろに言った。

「愛していると、言ってもいいですか」

 ―――あなたを。
 時間が止まったように感じた。
 ザギヴさんは動きを止めて、ゆっくりとこちらを振り向く。驚いたように見開かれた瞳に、わたしはとうとう耐え切れなくなって、目を閉じた。
 風が吹く。髪を撫で、頬を冷やし、足をすり抜けて飛んでいく。
 夕闇の気配が一段と濃くなった。
 閉じた視界の向こうから、ザギヴさんが近づいてくるのがわかった。
 ちいさく息を吸う音に、身を固くする。

「…私のことを、知っている?」
「……」
「あなたはきっと、知らないから、」

 ふるえる声に、わたしは目を開けた。
 ザギヴさんの美しい瞳が目の前にあった。

「私はね、」
「いいんです」

 とっさに、わたしはザギヴさんの言葉を止めた。
 なぜだかそうしなければいけないように思ったからだ。
 だって、ザギヴさんはきっと―――おびえている。恐れている。わたしにそれを告げることで、きっと彼女のなかのなにかが、壊れてしまう。


「愛して、います。ただそれだけを、許してください」
、でも、」
「憎みます」

 はっきり口にしたそれに、ザギヴさんが傷ついたような顔をした。ああ、そんな顔をしないで。あなたに言ったのじゃない。
 わたしは急いで言葉をつなげた。

「あなたを傷つけるものを憎みます。あなたの過去があなたを傷つけるなら、わたしはあなたの過去を、そしてそんな過去にならしめた何ものをも憎みます。すべてを知っても知らなくても、それは変わらない」

 あなたのことを愛します。あなたの過去を憎みます。あなたを孤独へと追いやったすべての闇を、ひとを、世界を憎みます。
 あなたを救うことはできない。できなかった。きっとこれからも、わたしはあなたを救えない。
 けれど、せめて。

「あなたを愛することを、許してください」

 無力なこの身で、想うことを許してください。
 告げて、うつむく。
 拒まれることが怖かった。それ以上に、告げることで彼女を傷つけるのが怖かった。
 憎まれるより愛されることのほうが、きっと彼女はつらいから。
 それでもいま、告げたのは、すべてわたしが愚かなせい。
 彼女を救った勇者に対する、身を焦がすほどの嫉妬に耐え切れなかった。
 力のない自分が呪わしかった。

「…

 頬に冷たい指先が滑った。

「話を、したいの」
「…はい」
「あなたに、私の、……むかしの話を」
「はい」
「憎んでも、愛しても、どちらでもいいから、」

 話をしたい。
 ザギヴさんの言葉一つひとつに、わたしはうなずき続けた。
 「そして」―――最後に、ザギヴさんは言った。

「私にも許してほしい。あなたを、愛することを」

 涙が頬を伝った。
 ザギヴさんの肩越しに、夕空が広がっていた。



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up data 07/11/15