「ぶへぇっくしょい! …っだぁ、さみぃー」

 およそ年頃の乙女らしからぬくしゃみをして、は首をすくませた。
 11月の風はすっかり冬のものだ。今年の冬は寒くなると今朝のニュースで言っていた。
 寒さに弱いとしてはまじめに勘弁してもらいたいところだ。

「あーあ、ったくなんでこんな日におつかい頼みやがるかねうちの母上は」

 ぶつぶつと愚痴りながらビニール袋を揺らす。なかにはしょうゆが一瓶。寒い、重い、めんどいの三拍子揃っていて、正直断りたいところだった。しかし、我が家の大黒柱たる母君にはだれも逆らえない。絶対零度のほほえみで、「行ってくれるわよね?」といわれたら、「Yes」としか言いようがない。ってゆーかまじ怖かった。

(ぜったい今朝おとんとケンカしたなありゃ)

 ふだんはやさしい父だが、一度怒るとしばらく口をきいてもらえない。そんなとき、われらが母上さまはご機嫌が最悪になる。意外にも、ほれ込んでいるのは母のほうらしい。
 ケンカするほど仲がいい。仲良きことは美しき哉。しかし、こっちに飛び火させるのはやめてほしい。
 言えないけど。

 はやれやれと両親に嘆息する。
 ちかちかと点滅する信号に気づき、小走りになったのはそのときだった。
 車どおりのすくない路地だ。左右など確認する必要もない。そう思った。思ってしまった。
 まちがいだった。
 甲高い音。ブレーキだと気づいたときには重力がなくなっていた。

(あ、やべ、しょうゆ)

 ふしぎと痛みはなかった。ビニール袋が手を離れる。
 灰色のコンクリートにたたきつけられる。
 最後に思ったのは、母に怒られるな、とただそれだけだった。



 怖い。怖い、怖い、怖い。
 暗いトンネルだった。向こうに光りがあった。
 なぜか、光りのほうが怖かった。
 なにも見えないトンネルのなかは、けれどとても安心できた。
 あそこはいやだ。行きたくない。
 子どものように駄々をこねた。
 しかし光りはどんどん近づき、やがてトンネルを抜けてしまった。
 怖い。
 怖くてたまらなくて大声で泣き叫んでしまった。
 この年になって、と思うが、止められない。
 だって恐ろしいのだ、この光りは。
 たまらなく寒い。

「ああ、ああ、ああああ」

 女の声がした。なにかを嘆いているようだった。

「どうしよう、どうしよう、こんなの、育てられない」
(こんなの? 育てる?)
「うぅぅ…あんな、あんな男の子どもなんて、いやだ、いやだ、いやだ…!」

 とたん、息が苦しくなった。
 まぶしさに耐えられるようになって目を開くと、女のひどい形相が映った。
 醜くゆがんだそれは、憎悪。汚いものでも見るかのような視線に腹が立った。
 呼吸ができない。

(くそ、なんだよあんた! やめろ、苦しい…!)

 抵抗しようと必死でもがいた。それなのに、手足は思うように動かない。
 いったいどうなっているのかと自分の身体を見て、愕然とした。

(―――なに、これ)

 細くちいさくか弱い手。曲げることしかできない足。女の両手で簡単に折れそうなそれらは、酸素の足りない頭でもよくわかった。
 光りに慣れた目が周りを映し込んだ。さびれた建物。冷たい路地。灰色しかない世界で、はもう一度生まれ直した。


の守り手

Act.01  灰色のはじまり


突然割り込んできただれかの手のおかげで、なんとか死はまぬがれたけど、いったいこの先どうなるのか。(ところでしょうゆはどうなった?)



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up data 07/11/06