デイジー シャベルを置いて、ひとつ息をついた。汗を拭って、立ち上がる。 夏も冬も一定の温度が保たれている温室の中では、作業に没頭していると、知らず汗だくになってしまっている。 園芸部というのも、楽じゃない。 軍手を取って、備え付けの流しで手を荒ってから、私は温室の奥のほうへ足を向けた。 そこに置かれている棚の上の植木鉢には、一輪の花が植わっている。 私の植えた花が。 (おっ) そっと覗き込み、思わず口元を緩めた。 つぼみがしっかりふくらんで、今にも咲きそうだ。 明日辺りはきっと、きれいにその花を開かせているだろう。 (やった。これであの子を―――) 不意に聞こえた物音に、私は思考を止めた。 「だれ?」 「あ…」 そこに立っていた人物に、軽く目を開く。 「志摩子ちゃん…?」 今まさに思い浮かべていたひとがそこにいて、私は虚を突かれて、一瞬言葉を失った。 「す、すみません。お邪魔してしまいましたか?」 きれいな後輩の、翳った顔に慌てて首を振る。 「いや、びっくりしただけ。どうしたの? 珍しいね」 「あ、はい…。今度の、美化委員会の連絡で」 「ああ、使われてない花壇に花を植えるって話? 今日は園芸部休みだから、悪いけど、明日のお昼休み、また来てくれるかな」 「休み、なのですか?」 「うん。あれ、知らない? 毎週この曜日は休みなんだよ」 そうなんですか。―――志摩子ちゃんは驚いたような、どことなく暗いような表情で、目を伏せた。 私は僅かに首をかしげる。 「どうかした?」 「いえ…さまは、どうして今日…?」 ああ、休みなのに来ている私を、いぶかしんでいるだけか。 私は笑って肩を竦めた。 「帰ってもやることないから。花の世話と、そのついでに、新しいのも育てようかと思ってね」 さっきいじったばかりの花壇を見やる。 釣られて視線を移した志摩子ちゃんが、微かに笑った。 「そうですか…。そういえば、ここ最近、よく温室に出入りしていらっしゃいますね」 「うん、まあね」 それはまた、べつの理由なんだけど、と心の中で付け足す。 あの花はまだ咲いてないから、まだ教えられない。 志摩子ちゃんは一度室内を見回すと、不意に、私の後ろに目を留めた。 「…あの…」 「うん?」 「その植木鉢は、なにが…?」 うっ―――。私は思わず言葉に詰まった。 よりによって、これに目を留められるなんて…。 「あ、これは…その、……」 「さっき見たとき、ずいぶんと…やさしい顔をされていましたので、すこし気になって…」 見られていた。というか、 「そんな顔、してた?」 思わず頬に手をやる。 「はい。とても愛しそうに見ていました」 ? 気のせいだろうか。 肯いた志摩子ちゃんの目に、すこし翳りがよぎった気がした。 思い過ごし、かな。 「愛しそう、ね…。花見てそんな顔するなんて、私もけっこう乙女だねー」 ごまかすために冗談めかして笑いかけた。 志摩子ちゃんは微笑み返してくれて、でも、すぐに顔を伏せた。 「志摩子ちゃん?」 「…だれか、見せたい方でもいらっしゃるのですか?」 「え?」 図星を突かれてうろたえる私を、志摩子ちゃんが悲しげに見つめてくる。 (って、悲しげ?) どうして、と考える前に、志摩子ちゃんが先を続けた。 「このあいだ、園芸部の方とお話をしていて…さまが、だれかにあげるために、花を育てていると…」 私は顔を引き攣らせた。 ちょっと待て。そんな話、私はだれにも一言も喋ってないはず。 それは単なる憶測だ。憶測のくせに本気で真実なあたりが、さらにいただけない。鋭すぎるぞ、園芸部員。 「ですから、それがその花なのかと…」 「そ、そっか…」 あーあー。ここまでばれたら、もう隠す必要ないなぁ。 私は観念して、ため息をついた。 「明日まで秘密にしておこうと思ったのに」 「明日?」 「うん。…来て」 志摩子ちゃんを促して、私はその鉢を彼女に見せる。 「わかる? もうすぐ咲くんだ。明日辺りにね。咲いてから教えようと思って、秘密にしていたんだけど」 「この花は…?」 「デイジー。別名、マリアの花って呼ばれてるんだよ」 「マリアの花…」 「そ。マリアさまの涙から生まれた花とされているから」 志摩子ちゃんは、じっとその花を見つめる。 やっぱりマリアさまのこととなると、普段の何倍も真剣な表情になる。 すこし悔しい。 「これを、見せたくて…?」 「うん、そう。ほんとは開ききってからがよかったんだけど、ま、仕方ないか。つぼみを見るのもまた一興、だよね」 「…え?」 驚いた表情をする志摩子ちゃん。まさか、まだ気づいてない? 「志摩子ちゃんに見せたかったんだよ、これ」 「―――え」 「マリアさまの花だから、見せたら喜ぶかなって」 「……」 「…あれ、嬉しくない?」 顔を俯けたまま、無反応の志摩子ちゃんに不安になって、顔を覗きこんでみる。 すると。 「……あ」 頬を微かに染めて、志摩子ちゃんは黙り込んでいた。 「……」 「…えっと…」 どうしよう。なんか可愛いよこの子。いや、可愛いのは前から知ってるけど。 戸惑いになにも言えなくなり、私も黙り込む。 なんだか妙な沈黙がしばらく続いたあと、志摩子ちゃんがすこし顔を上げ、私を見た。 「さま…」 「え、あ、な、なに?」 「あの…ありがとう、ございます」 一瞬目を泳がせて、志摩子ちゃんははにかんだ。 ああ、なんか、もう。 今ここで、好きだと言ってしまおうか。 きっとできないだろうことを、半ば本気で思いながら、私は彼女に笑い返した。 そういえば、志摩子ちゃんの様子がおかしかったのは、結局なんだったんだろう。 そんな疑問が頭をよぎったけれど、それはすぐに消えてしまった。 |