対峙



 あなたの隣に立ちたいわけじゃない。



 落ちかけた太陽の赤い光りが教室を照らしている。静まった空気の中に、ふたり分の息遣い。
 私が動かすペン先を、前の席に座っている江利子がじっと見つめていた。
 注がれる視線を無視して、私は手早く先へ進める。シャーペンが紙の上を滑る音が、沈黙に響いた。

「終わった?」
 音がぴたりと止み、一拍して江利子が顔を上げた。
「見ればわかるでしょう」
 抑揚のない声で答えると、江利子は面白がるように口端を吊り上げる。嫌いだ、この顔。

「職員室に届けてくるから、先帰っていいわ」
 用紙を持って立ち上がると、江利子が視線で私を追った。
「待っているわ」
「待たなくていい」
「私は大丈夫よ」
「私が嫌なの」

 努めて冷たい視線で見やる。私の嫌いな顔がそこにあった。不快を感じて眉を寄せれば、笑みはますます深くなる。
 わかってやっているのだ、このひとは。私が嫌がれば嫌がるほど、面白がって寄ってくる。鳥居江利子のそういう性質が嫌いだった。

「だって、私なにもしていないわよ。同じ当番なのに」
「いいわよ。好きでやってるんだから」
「蓉子みたいなセリフね」
 目を細め、睨むように江利子を見やった。江利子も目を細める。こちらは笑いを含んだ声で言う。
「怖い顔」

 私は唇を引き結んで、目を逸らした。
 今口を開けば、罵倒雑言が飛び出すことは確実だ。
 江利子はそれを待っている。だから私は沈黙する。

 しばらくのあいだ、重い空気が降りた。もっとも、これが私たちの常だから、気にすることではないけれど。
 時計の音が沈黙を刺す。いい加減飽きてきて、無視してさっさと行ってしまおうかと思い始めたころ、江利子が口を開いた。

「諦め悪いわね、
 胃の辺りからこみ上げる嫌悪感に、歯噛みする。
「なにが」
「聖のこと」
 私は思わず顔をしかめた。江利子が肘をついて私を見上げている。笑っている。目が、口が、声が、すべてが、私を笑っている。
 不愉快だ。

「いつまで続けるつもり?」
「関係ないでしょう」
「大ありよ」
「どうして」
「わかっているくせに」

 江利子の瞳が笑みから別のなにかに変わる。それがなにかはわからないけれど、言うなれば、捕食者の眼。
 獲物をけっして逃さないという、強い束縛の意志。
 けれどこれは、一度捕らえてしまったものにはもう向けられることはない。手にするまでが彼女の幸福なのだ。一旦手中に収めてしまえば、あとは飽きる一方。
 彼女こそ、正真正銘の快楽主義者だ。

 江利子の目が僅かに呆れを含む。
って、案外しつこいひとよね」
「それはこっちのセリフよ」
 うんざりしたふうに返すと、江利子が唇をす、と引いた。同時に、さも楽しげな笑い声が漏れはじめる。悪意など欠片もない。彼女は純粋に楽しんでいるのだ。

 まるで猫がじゃれているように、江利子もまた、私と遊んでいるつもりに過ぎない。その中で、気まぐれに立てた爪が私を傷つけようと、江利子は構わない。
 気づいているのかどうかは知らないけれど、彼女にとって私が傷つくということは、たいした意味を持たないのだ。

 だめだ、と私はとっさに顔を背けた。
 もう限界だ。これ以上彼女の相手をしていたら、本気で殴りかねない。

 私は江利子に背を向け、足早に教室の出入り口へ向かう。
「もう行ってしまうの?」
 心底残念そうな声が後ろからかけられるが、振り返らず片手を軽く振って追い払う。「つまらないわね」という呟きが聞こえた。

「ねえ、

 半歩教室を出かけた足が、止まった。
 深いため息を吐く。けれど立ち止まってしまったのだから、応えるしかない。
「なに」
「あなた、私のこと好きでしょう」
 訊ねているのか決めつけているのか、微妙なところだった。私は肩越しに振り返り、江利子を見る。
 江利子は笑っていなかった。じっと、私の深くまで見透かそうと、目を凝らしているようだった。

 その視線を数瞬受け止めて、無表情のまま、答える。

「大嫌い」

 堕ちかけた太陽が、窓越しに見えた。



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up data 05/4/27
適当100題「036:対峙」
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