伝染



 視界がぼやけている。
 なぜだろう。息が苦しい。
 頭の中がぐるぐる回っているよう。
 自分がどういう状態なのか、わからなくなって混乱した。
 気持ちが悪い。
 ここはどこ?

?」
 額に当てられた手の平の冷たさで、私の意識はようやく覚醒した。

 目だけをそちらにやる。
 そこには、心配そうな姉の顔があった。
「蓉子…姉さん…?」
「ただいま。熱はどう?」
 ただいま…? 言葉の意味が頭に入ってこない。
「今は、もう夕方過ぎよ」
 どうやら私は、一日中ずっと眠っていたらしい。
 ぼんやりとする意識が、やっとそれだけを理解した。

 見ると、蓉子姉さんは制服姿のままだ。
 私は眉をしかめ、姉さんを見上げた。
 その意味を理解したように、姉さんが笑う。
「ごめんなさい、心配だったから。帰ってきたとき、だれもいなかったし…ひとりで寝ていたの?」
「……しらない」
 ほんとうになにも覚えていなくて、そう答えた。
 そういえば、母が出かけるとひとこと言って、出て行ったような気もする。

「そう…。タオル、替えるわね」
 ひんやりと、冷たい感触が額に乗せられる。
 気持ちいい。
 ため息をつくと、蓉子姉さんが聞きとがめた。
「具合、悪い?」
「…今朝よりマシ…」
「吐き気は?」
 無言で首を振る。
「食欲は?」
 また、同じ答え。

 姉さんが眉をひそめた。
 心底私の具合を心配している顔。
 このひとは、どうしてこう、他人のこととなると懸命になるんだろう。
 風邪がうつるから、必要以上に近づかないほうがいいのに。

「なにか、欲しいものはある?」
「…いい。着替えてきたら」
 気分が悪すぎて、愛想のない声音になる。
 でも、姉さんは気にした様子はなかった。
「しばらくはここにいるわ」
「……」

 蓉子姉さんが、私の手をそっと握る。
 冷たい手。外から帰ってきたばかりだからだろうか。
 それとも、私の熱のせいだろうか。
 いつもは、私のほうが冷たいくらいなのに。

 手が汗をかいている。
 熱のせいだ。
 頭がくらくらする。
 熱のせいだ。
 心臓が音を立てている。
 熱のせいだ。
 姉さんの顔が、直視できない。
 ―――熱のせいだ。

、大丈夫?」
「…うん」
 姉さんから顔を背けて、小さく頷いた。
 沈黙が怖くて、気分の悪さも無視して言葉を探す。
「……風邪って、うつしたら治るってよく言うよね」
 ほんとかな、と笑うと、姉さんも小さく笑った。
「さあ。試してみる?」
「んー…」

 ひとが聞いたら、冗談だと思うだろう。
 でも、蓉子姉さんは変なことをよく試したがるから、たぶん本気だ。
 私は首を振った。
「やめとく。姉さんが倒れたらッ…それこそ困るひとが大勢いるでしょ」
 言葉の途中で出た咳に反応して、姉さんが私を覗き込む。
 肩まで毛布を引っ張ってから、私に微笑んだ。
が苦しんでいるのを見るよりは、よっぽどマシよ」

 息が詰まる。
 どうしてそう、自然な顔で、私が泣きたくなるようなことを言うんだろう。
 私は必至で笑い返した。
 風邪でよかった。
 多少歪んでても、具合が悪いせいにできる。

「それじゃ周りが困るでしょ…」
 語尾が震えた。
?」
 蓉子姉さんが、手を伸ばしてくる。
 ばれたのだろうか。
 姉さんの指が、私の目元をそっと拭った。

「どうしたの?」
「なんでもない」
「でも、涙が…」
 困ったような、心配しているような顔。
 私はありったけの気力を集めて、答えた。

「―――熱のせい」

 どうしてだろう。
 風邪は簡単にうつるのに、この(やま)いは私の中に留まったまま。
 風邪のようにあなたに伝染して、ふたりで堕ちてしまえればいいのに。



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up data 05/3/18
last up 05/3/19
適当100題「007:伝染」
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