曲者



「すべてが不満なわけじゃないのよ」

 あるとき、さんはそう言った、

「ただ、妥協できないだけ」

 すこしだけ、困ったような顔をして、

「子どもなのよ、私は」

 そう笑いながらも、けれどけっして立ち止まることはせず、

「だけど、だから、妥協できないならできないで、貫くしかないのよ」

 そんなあなたの生き方が、

「ねえ、そうでしょう? 蓉子さん」

 私はとても、羨ましい。



 虚空を静かに切り裂いた紙ヒコーキの話は、あっというまに学園中に広まった。
 反応はひとそれぞれ。
 賛同する人もいれば、眉をひそめる人もいる。
 祥子なんかは、なにも言わなかったけれど、たぶん心の中ではあまり感心していないのだろうと思う。
 江利子はとても喜んでいた。

――やると思ったわ。

 その言葉に、江利子がずいぶん前から、さんに関心を持っていたことを知った。
 そのとき感じた焦りは、勘付かれないように飲み込んだけれど。

 あれ以来、さんは私に興味を持ったらしく、顔を合わせれば声をかけてくるようになった。
 それ自体は、嬉しいことだけど。
「蓉子さんは、」
「え?」
「自分の生き方が、つらくなったりすることはない?」
 私は思わず口をつぐんだ。

 こんな答えづらいことを、さも日常会話のように問いかけてくるから、つらい。
 私は仕方なく苦笑する。
「どうかしら」
 答えをはぐらかすと、さんは一瞬可笑しそうに目を細め、それ以上はなにも言わなかった。

 しばらくして、さんがぽつりと言った。
「蓉子さんは大人すぎるのね」
 その意味がわからず、私は訊き返す。
「なぜ?」
「ごまかしと嘘をうまく使うわ」
 なにも言えなかった。

 非難されたのかと思ったけれど、口調はあくまで軽い調子で、かえって私は混乱した。
 さんははっきりしていて、率直な物言いをする。
 嫌味なく、相手を傷つけない程度の正直さで話す。
 そのやさしさが、意図したものかそうでないのかは、わからないけど。
 だから逆に、真意が読めないときがある。
 いまみたいに。

「それは、どういう意味で言っているの?」
 さんが私を振り向く。
「意味って?」
「私が大人すぎるって」
「咎めているわけじゃないわ。そう聞こえた?」
「確信犯ね」
「ばれた?」
「いまわかった」
 さんは悪びれるでもなく、からりと笑った。

 曲者だ。江利子とはべつの意味で。
 正直者を装って、ときおり不意打ちで皮肉を投げる。
 それを受け止めきれず、よろめく私をはたで見て笑っているのだ。
 なんて曲者。そして意地が悪い。

「やっぱり、蓉子さんは大人すぎるわ」
 また、可笑しそうな顔をして、さんが言った。
「言葉の裏側を見ようとしている」
 否定できずにいると、さんは、今度は声を立てて笑った。
 すこしだけ、居心地が悪い。

「言葉にはね、裏側なんてないのよ」
「え?」
「裏表なんて、言葉にはない。言葉にあるのは、良くも悪くも真意だけ」
 さんは肩を竦めた。
「あとは行動を見ていれば済むことよ」
「そうかしら」
「そうなのよ」

 確信的な物言いは、さんの特徴だ。
 そして、その断言に、私は無条件に納得してしまいそうになる。
 だけど、ほんとうに納得していいのかと、心の中で自問する。
 それを見透かしたように、さんは言った。

「ねえ、蓉子さん。私はあなたを非難しているように見える?」
「いいえ」
「私はあなたを嫌っているように見える?」
「いいえ」
「そうよ、私はあなたを非難しても、嫌ってもいない。だって、好きなんだもの。そう見えるはずがないわ」

 私は一瞬聞き流しかけ、そして気づいた。
 気づいて、耳を疑い、それからさんを見た。
 さんはいつものように私を見ている。
 真意のわからない微笑み。

「それは、どういう意味で言っているの?」
 さんが、微笑を深くする。
「意味って?」
「私を好きって」
「告白しているわけじゃないわ。そう聞こえた?」
「確信犯ね」
「ばれた?」
「いまわかった」
 さんは悪びれるでもなく、からりと笑った。

 やっぱり曲者だ。
 心の中で思う。
 正直者を装って、そのじつ真意を読ませない。
 それなのに妥協はせず、信じたことを信じぬく。

 なんて人だろう。
 私はため息をつきたくなった。
 顔が熱いのは、気のせいじゃないと思う。
 だってほら、さんが笑っている。



---------------------------
up data 05/1/4