あなたの微笑み 後編



 職員室に着いて、先生に荷物を渡し、外に出る。
 さまは職員室から出た途端、ぐっと背伸びをして、息を吐き出した。
「あー、腰いた。やっぱ運動しないとだめだねー」
「すみません、手伝わせてしまって…」
「なに言ってるの。私が勝手にやっただけでしょ。すみませんよりは別の言葉がいいなー」

 いたずらっぽく微笑むさまに、思わず見惚れる。
 そうか、こういう表情もできるんだ。
 そう思いながら、さまに改めて向き直り、軽く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「うん、どういたしまして」
 さまは満足そうに笑った。

 鼓動が早くなるのを感じながら、歩き出したさまの隣に並ぶ。
「蓉子ちゃん、これから時間ある?」
「え、はい、今日は薔薇の館の仕事もありませんから、大丈夫です」
「それはよかった。じゃ、ちょっと中庭歩こうよ」
 数秒呆けた。
 忘れかけていた緊張が、戻ってくる。
 どもりそうになるのを、必死で堪えながら、私は頷いた。
「はい」


「だいぶ寒くなったね」
 中庭を歩きながら、さまが空を仰ぐ。
「そうですね…もう、12月ですから」
 そうだ。もう12月なのだ。
 さまは最上級生になり、私には妹ができた。
 選挙と、そして、卒業。
 このふたつが、いよいよ現実的なものになってきていた。
 さまは虚空に息を吐き出しながら、呟くように言う。
「卒業かぁ」
 私は足元に目を落とした。

 卒業。
 さまは進路をどうなさるのだろう。
 お姉さまは、他大学を受けるのだと言っていた。
 もしかしたら、さまも…?

 横目でさまを見やる。
 なにかを考えているように、さまは虚空から目を離さない。
 私は無意識に、ため息を零した。
 すぐにさまが反応して、振り返る。
「ん、どうしたの?」
「いえ、べつになんでもありません」
 ふぅん、とさまは僅かに目を眇めたけれど、それ以上はなにも言わず、引き下がってくれた。

 ほっとする。
 突っ込まれて訊かれたら、答えに詰まっていた。
 まさかため息の理由が、さまにもう会えないと思ったから≠ネんて、言えるわけがない。

 さまはまた虚空を見やり、数秒沈黙した。
「蓉子ちゃんは、」
 呼ばれ、顔を上げる。
「お姉さまのこと、好き?」
「はい」
 即答。これは、自信を持って言えること。
「そっか」
 ため息混じりの声。

「私、いろいろ迷ったんだけど、やっぱり大学もリリアンにしたんだ」
「そう、ですか」
 安堵した。それでもめったに会えるわけではない。
 でも距離が近いだけ、ましだ。
 同時に、ふしぎにも思う。
 初めて会ったときを除いて、会話を交わしたことのない私に、なぜそんなことを。

 私は黙って、さまの言葉を待った。
「けど、やっぱりもう会うことはほとんどないと思うから、言っておくね」
 とくん、と鼓動が一段と高く鳴る。
「はい」
 さまは立ち止まって、私に振り返った。
「あのね、蓉子ちゃん」
 真剣な顔。私の好きな双眸。
 少しだけ、緊張感が増す。
 す、と息を吸い、さまが次の言葉を紡いだ。

「あんまり無理しないでね」

 しん、と空気が静まった。
 最初から静かだったけれど、一段と静かに。いや、重くなった。
 私はさまの真顔を見つめ、黙る。
 さまは私の言葉を待って、黙る。
 どれだけそうしていただろう。ひゅぅ、と北風が私たちのあいだを吹き抜け、その冷たさで、私の思考が再起動した。

「はあ」
 語尾が上がらなかったのは、ひとえに私の忍耐力の賜物だろう。
 本当は眉をひそめ、思い切りはあ?≠ニ訊き返したかったのだけど、そんなことを目上の人、それもさまにはできない。
 そんな私の忍耐に気づきもせず、さまはつづけた。

「いや、私も間近で紅薔薇さま≠見てて思ったんだけどさ、真ん中ってすっごい大変だよね」
「あ、はい…」
「両脇の二人を引っ張って、うまい具合に動かさなきゃいけないんだから」
「はい」
「蓉子ちゃんには見せなかったけど、彼女もすごく苦労しててね、傍から見ても同情を禁じえなかったよ」
「はい…」
「だから蓉子ちゃんも、あまり無理はしないようにね。っていうか聖ちゃんと江利子ちゃんだと、さらに苦労しそうだけど、なるようになるから」
「は、い…」

 たしかに期待したのは私の勝手だ。それは認める。
 でもこのオチはどうだろう。
 ああ、けど、さまの考えは正しい。聖と江利子を引っ張るとなると、相当苦労する。
 だけど。でも。うん。

「お気遣いありがとうございます。ですが、それが私の役目ですから」
 自分を叱咤して、微笑を作る。さまはそれで安堵したのか、笑い返してくれた。私の好きな表情が、いまは憎い。
「そう、よかった。じゃあ、私たちが卒業しても、がんばってね」
「はい、ありがとうございます、さま」

 結局そのあと、さまと言葉を交わすことはなかった。
 あれが本当に、最初で最後の会話だった。
 いま思い返しても、それは微妙に切なくて、そして微妙に哀しい出来事だった。



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up data 04/12/12