あいしてる



 あっ、と思ったときには、もう風に飛ばされていた。
 今日の会議に必要な、書類が数枚、大学校舎のほうへ消えていった。
 私は慌てて、それを追いかける。
 今から印刷しなおすなんて、手間も時間も掛かる。

 駆け足で三枚の紙を追う。
 一枚は地面に滑るように落ち、もう一枚は大学と高等部を仕切るフェンスに引っかかった。
 そして最後の一枚は。
「おっと」
 偶然通りかかった大学生の手によって、掴まえられた。

 私二枚の書類を手に、顔を上げる。
「すみませ――――」
 ん、のところで、声を失った。
 驚きのあまり、差し出された書類を受け取るのも忘れて、立ち尽くす。
 目の前に立っているその人は、そんな私を見て、くすくすと笑った。

「驚きすぎじゃない? 蓉子ちゃん」
…さま」
 。一足先に大学生となった、かつての先輩。
 そして、私の…憧れの人。
「ほら、書類」
「あっ、ありがとうございます」
 焦りながらも、渡された書類を確かめる。
 きちんと整えて、今度は飛ばされないように気をつけなきゃ。

 それにしても。
「「すごい偶然」」
 ですね、とはつづかないまま、笑い出してしまった。

「今までぜんぜん顔合わせなかったのに、突風が来たと思ったら蓉子ちゃんが走ってきて…驚いたよ」
「私も、顔を上げたらさまが居て、本当に驚きました」
「呆然としてたもんね」
 少し顔を俯けた。
 たぶん、間抜けな顔をしていたんだろう。
 さまは可笑しそうに笑った。

さまは、これから…?」
「ああ、いや、今日はもう帰るところ。なんならお茶してく?」
「…これから会議ですから」
「知ってる」

 さまは意地悪だ。
 私が薔薇の館の仕事があることを知っていながら、こうやって誘ってくる。…本当は、是が非でも行きたいんだけど。

「蓉子ちゃんは真面目だよね、相変わらず」
さまは意地悪ですよね、相変わらず」
「言ったな」
「言いましたよ」
 さまは私を睨むふりをして、でもすぐに笑った。
 やけに機嫌のいい顔。
 もしそれが、私に会えたせいだとしたら…嬉しい。

「でも、ちょっと大人の顔つきになってきたね、蓉子ちゃん」
「そうですか?」
「うん。なんか凛々しくなっちゃって、可愛かったころの蓉子ちゃんが懐かしー」
「…なに言ってるんですか」
 いまの私は気に入らないんだろうか。
 少し不安になった。
 けれど、その不安はすぐに払拭された。

「ほんと、蓉子ちゃん、きれいになったね」

 …自分でも現金だと思う。
 でも、嬉しいものは嬉しい。
 だからここは、素直によろこんでおこう。
「ありがとうございます」
 自分にできる限りの、精一杯の笑顔を心がけて、笑う。
 さまも、微笑み返してくれた。

「突風に感謝しなきゃな」
「え?」
「蓉子ちゃんに会わせてくれた」
「…じゃあ私も、感謝しなきゃいけませんね」
「ん?」
「突風を呼んでくれたマリア様に」
「っあはは、そうだね、リリアンだしね」

 さまはひとしきり笑うと、そうだ、と私の袖をつい、と引っ張った。
「ねえ、会議はいつごろ終わる?」
「え…っと、一、二時間かかると思いますが」
「それじゃ、終わったらお茶しよう」
「えっ?」
「待ってるから、近くの喫茶店で。知ってる? リリアンで流行ってた」
「いまでも流行っていますよ」
 じゃあ、そこで。

 さまはそう言って、フェンスに手をかけ、身を乗り出す。
「またあとでね、蓉子ちゃん」
 微笑は視界の端に消えた。
 耳元に吐息。ささやかれた言葉。

「――――なっ…!」
「お、ジャスト三秒。思ったより反応早いね」
「なにばかなこと言って…!」
「んー? ばかとはなんだ、ばかとは。じゃ、待ってるから早めに来てね! ごきげんよう」
 私が文句を言う前に、さまはさっさと言ってしまった。
 私は自分の口元を手で覆い、もう片方の手で心臓の辺りを押さえた。

 真っ白になった頭に、その言葉だけが焼き付く。
 耳に残る鮮やかな熱が、私をさらに動揺させる。
 私は波打つ鼓動を必死で抑えようとしながらも、しばらくそこから動けそうにないことを悟った。


 さまは本当に意地悪だ。
 こんな顔で、薔薇の館になんか行けない。



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up data 04/9/18