家出 「令ちゃんのばか!!」 「よ、由乃ぉ」 掛け時計が九時を指す。 リビングのテーブルに座っていた三つ編みの少女の前に、はカップを置き、向かい側に腰を下ろした。 「で、また家出してきたわけ?」 は至極楽しそうに笑う。 一方の少女――由乃は、むすっ、と不機嫌な顔で応じた。 「だって、令ちゃんったら、また私のこと病人扱いするんだから」 「実際、病人でしょう?」 「だった、だよ。私もう治ったんだから」 「とはいっても、まだ激しい運動はだめだって、お医者さまに言われているじゃない」 「それは―――そうだけど」 目を逸らす由乃に、はやさしく微笑みかける。 「由乃。令だってなにも、今までと同じようにしていろ、なんて言ってないでしょう? ただ、注意しておかないと、って言っただけじゃない」 「そうだけど…そうだけどっ、でも私はっ!」 「もう病人扱いはいや?」 「…うん」 やっと頭が冷えてきたのか、由乃にさっきまでの勢いはない。 は柔らかな眼差しで、由乃を見つめた。 「ねえ、由乃。私だって、心配しているのよ。あなたが無茶をしないか、また発作が起きないか」 「…もう治ったよ」 「それでも、心配なものは心配なの。由乃、生まれてからずっと心臓の病気を持っていたでしょう? 癖がついちゃったのね」 「心配する癖?」 「そう。令も私も、由乃のご両親だって」 「じゃあ、令ちゃんのあの性格、半分は私のせいだね」 「そうね」 二人でくすくすと笑いあう。 「令には私から言っておくから」 「それで聞くような人だったら、私だって苦労しないわよ」 「それはわからないわよ。相手が由乃だから、令もあんなに過保護になっちゃうんじゃない?」 「…そうかな」 「なんとか説得してみるから。由乃も、もうこんなふうに家出してきちゃだめよ?」 言い聞かせるように、は言った。 「いくら徒歩一分もしないとはいえ、最近は物騒だからね。夜中に女の子ひとりじゃ、危ないでしょう?」 「大丈夫。そんなときは―――」 言いかけて、由乃は口を噤む。 そのつづきを予想して、はテーブルに肘をついた。 「令ちゃんが助けてくれるから=H」 ばつが悪そうな顔をする由乃に、は笑いを漏らす。 「なんだかんだ言って、やっぱり信頼しているのね。令のこと」 「……」 「ほんと、仲がいいよね、二人は。少し―――」 の声は、電話のコール音によって遮られた。 は顔をあげ、電話と由乃を見比べる。 由乃が呆れたようにため息をつく様を苦笑で見やり、立ち上がった。 「はい、です。―――ええ、いるわ」 肩越しに由乃を振り返る。 由乃はそっぽを向いて、まったくこっちを見ようとしない。 仕方ないな、という表情で嘆息して、は電話越しに聞こえる困り果てた令の声に意識を戻した。 「今夜はうちで預かるから。うん。平気よ。大丈夫、安心して。…私は信用できない?」 そんなことはないけど、と口ごもる令に、はつづけた。 「あんまり過保護にしていると、またロザリオ返されちゃうわよ?」 クリーンヒット、といったところか。 令はすっかり黙り込んでしまった。 こっそり笑って、はさらに言う。 「私に任せて。明日には機嫌直っているわ。…はいはい、大丈夫だから。ええ、何かあったら知らせる。…じゃあね」 おやすみ、と言って、受話器を置く。 「…令ちゃん、なんだって?」 「由乃をよろしく、だって」 「まったく…。どうして親よりも先に令ちゃんが電話してくるのかしら」 「親よりも濃密な関係なんでしょう?」 「……」 否定はしないんだ、と心の中で笑う。 二人は本当に、仲がいい。 学校でも私生活でも、まるで姉妹だ。 けれど、こうして見ていると、ある意味恋人のようにも思える。 「…それで、なに?」 「え?」 「姉ぇ、さっき何か言いかけたでしょ?」 なんだったの、と訊ねてくる由乃に、は首を振った。 「なんでもない。それより、お風呂に入る? お湯、張ってあるわよ」 「あ、ごまかした。ねえねえ、なんだったの?」 「なんでもないわよ」 「うそ。なんでもないって顔じゃなかったよ? 少し=Aの続きは?」 食い下がる由乃のしつこさに、は苦笑した。 「少し、妬けちゃうって言いたかったの」 由乃は驚いたように目を瞠った。 「…妬ける? 姉ぇが?」 「悪い? だって、あなたたちすごく仲がいいんだもの。私が入る隙間なんてぜんぜんない」 冗談めかしてため息をついてみせる。 けれど、由乃は真剣な表情でを見つめた。 「あいだに入りたいの?」 「……」 その問いに、おどけた表情を消して、見上げてくる由乃の眼差しを受け止める。 数秒、そうしてお互いを見つめあい、が言った。 「うん」 すぐに由乃から目を逸らし、背を向ける。 「着替え、用意してくるから、お風呂に入ってなさい」 言って、リビングを出ようとする。 しかし、それは由乃の腕によって止められた。 「? 由―――」 「…姉ぇ」 きゅっ、とお腹に回された腕に力がこもる。 背中に由乃の頭が押し付けられ、は肩越しに由乃を見やった。 「…なに? どうしたの?」 「私と令ちゃんのあいだに隙間はないけど、かたっぽなら空いてるよ」 「…え?」 「……、私の隣」 は驚きに言葉を失い、目を見開いた。 「それは、どういう「それじゃ、お風呂入ってくるから!」 ぱっと腕が離れ、由乃はぱたぱたとリビングを出て行った。 残されたは、呆然とその場に立ち尽くす。 どれくらいそうしていただろう。 カチリ、という音に、ははっとした。 掛け時計が、九時半を指している。 風呂場から物音が聞こえてくる。 「―――由乃の隣、か」 呟くは、困ったような、けれどどこか嬉しげな表情。 「まったく…。本当にとんでもないんだから」 緩んだ頬は、僅かに紅潮していた。 |