落ちる



「水野さん」
 振り向くと、先生が微笑を湛えながら、こちらに歩いてくる姿が見えた。
 身体全体で振り返り、挨拶をする。
「ごきげんよう、先生」
「はい、ごきげんよう」
 にっこり笑い返してくる彼女は、リリアン出身の教師だ。
 わかりやすい授業とやさしい性格で、校内でも人気が高い。

「これから薔薇の館?」
「はい」
 先生が歩き出したので、私もあとにつづく。
「最近忙しいみたいだけど、身体のほうは大丈夫?」
 気遣うような先生の顔に、私は軽く首を振った。
「平気です。それに、私が動かないと、どうにもなりませんから」
「鳥居さんと佐藤さんがいるじゃない」
「あのふたりは…ご存知でしょう?」

 聖も江利子も、普段は大人に対しては適当に猫をかぶるけれど、先生に対しては素の自分を出している。
 それも信頼の証なのだろうけど、あの曲者二人組みだ。
 先生も、扱いに相当苦労しているらしい。

 先生は苦笑して、でも、と言った。
「あなた一人に無理をさせるほど、ふたりとも冷たい人間じゃないでしょう?」
「それは…」
 …どうだろう。
 言いよどんだ私に、先生は苦笑を深めた。

「よっぽど苦労しているのね。ごめんなさい、先生が悪かったわ」
「いえ…」
 私も苦笑いを浮かべる。
 改めて考えると、私と聖、江利子は、いったいどういう関係なのだろう。
 たぶん、普通の友人関係とはちがうと思う。二人が二人だけに。

「それにしても、本当によく似ているわ」
「え?」
「当時の紅薔薇さまと」
 先生の言葉に、私は軽く目を見開いた。

「似ているって…私が、ですか?」
「ええ。当時の紅薔薇さまも、曲者ふたりにそれは苦労していたみたいよ」
「…どうしてそのことを?」
「友だちだったから、あの三人と」
 なるほど、と思った。同時に、やっぱり、とも。
 先生は、きっと当時の薔薇さまにも、信頼を置かれていたのだろう。
 なぜだか、ふしぎと心を開ける人物だ。先生という人は。

「いつまで経っても、紅薔薇はまとめ役なのね」
「…そうですね」
 私はまた苦笑った。
 でも、そうすると来年は祥子。再来年は、祐巳ちゃんがまとめ役か。
 …たしかに、あの面子ではそうなってしまうかもしれない。
 がんばれ、二人とも。特に祐巳ちゃん。

 廊下を曲がり、階段を下りる。
 片足を着いた途端、ぎしりと音がした。薔薇の館も古いけど、校舎も相当年季が入っている。
 私は斜め後ろの先生を振り返る。
「先生は、このあと―――」
 どうするんですか、と言いかけた瞬間、視界が揺れた。
 刹那の浮遊感のあと、重力に従って身体が下へ傾く。

 落ちる。
 そう思った。

「危ないっ!」

 一瞬の出来事だった。
 気づけば、私は目を瞑っていた。
「あ…」
 落ちた、と思ったけれど、実際には立ったまま。
 顔を上げる。先生が、こちらを心配そうに見ていた。
「大丈夫? 危機一髪だったわね」
 言われて、下を見ると、かばんが踊り場に転がっている。
 腕に回された手と、今の状況を照らし合わせて、助けられたのだと気づいた。

 お礼を言おうともう一度顔を上げた瞬間に、甘い香りが鼻腔を刺激した。
 香水だ。
 そういえば、さっきからほのかな香りを感じていたけれど。
 先生のつけている、香水だったのだ。

「――――…」

 眩暈がした。
 ふらついた私の身体を支えるように、先生がいっそう腕に力をこめる。よけいに香水が香ってきて、頭の中が真っ白になった。
 なにも考えられない。
 先生がなにかを喋りかけてくれるけれど、耳に入ってこない。
 胸がざわめく。堪えようのない気持ちの昂ぶりを覚えた。

「―――さん…野さん…水野さん!」
 はっ、と顔をあげ、慌てて身体を放す。
 抱きしめられていると思ったけれど、無意識のうちに私のほうが抱きついていたらしい。
「具合悪い? 保健室に行く?」
「あ、へ…平気、です」
「でも、さっき様子がおかしかったわよ?」
「大丈夫です。なんでもないですから…」

 なおも気遣ってくれる先生から逃れるように、私は踊り場に落ちたかばんを拾い上げる。
「水野さん、疲れているなら休んだほうがいいわ」
「本当にもう大丈夫ですから。…それじゃあ、急ぎますので、失礼します」
 ごきげんよう、と言って、心配そうな先生を尻目に、階段を下りた。


 足早に下駄箱まで歩き、靴を履き替える。
 動揺していた。
 唐突に訪れたもの。
 それとも、自覚してしまっただけなのか。
 どちらにせよ、私にとってそれは初めての感情で、あってはならないものだった。



 まさか、恋に落ちてしまうなんて。



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up data 04/10/8
マリア様好きに50のお題「37:香水」
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