きみを想う



 温室の片隅に置いてある棚の上で、は膝を抱えて、座り込んでいた。
 静かな空間。
 喧騒は遠く、ここにはなにもない。
 は目を瞑っていた。
 ただそうしていたかった。

 ふと、人の気配に顔を上げる。
 いつの間にか、蓉子の姿があった。
さん…」
 蓉子が、気遣わしげにこちらを覗きこんでくる。
 は目を逸らし、再び膝に顔を埋めた。
「……」
 蓉子はの隣に腰掛けると、もう一度呼びかける。
さん」
 は反応しない。
「…どうしたの、さん。今朝から、元気がないから…」
「……なんでもない」
 ようやく、それだけが返ってきた。

 蓉子は心持ち顔を近づけて、言う。
「なんでもないわけ、ないじゃない。だって、変よ。具合でも悪い?」
「なんでもない」
 今度は強い口調で、応えた。
「…さん」
「ほっといて」
「ほっとけない」
「ほっといてよ!」
 顔を伏せたまま、が怒鳴る。
 蓉子はひるまず首を横に振った。
「ほっとけるわけないじゃない。…あなたが心配なの」
 その言葉に、の足を抱えている手が、ぎゅっと握り締められた。
さん…」
 そっと、蓉子が彼女の肩に触れようとした。

 しかし、それはの手によって振り払われた。
「―――触らないで」
 鋭く睨まれ、蓉子は目を見開く。
 は蓉子から顔を逸らし、温室を出ようと立ち上がった。
「っ、さん!」
 その背中に、蓉子が慌てて声をかける。
 は立ち止まった。
「…さん、なにがあったの? どうして私を避けるの?」
「避けてなんかない」「避けてるじゃない!」
 思わず声を荒げて、はっとする。

 蓉子は自分を落ち着かせるように息をつくと、幾分か静かな声で、続けた。
「避けているじゃない、私のこと…っ。…どうして? 私、なにかした?」
「…なんでもないよ」
「なんでもないなら、どうして?」
 は目をきつく閉じた。
 拳を握り締め、何かを堪えるように、必死になっていた。
 けれど、蓉子を背にしているため、彼女からの様子は見えない。
 蓉子は気づかない。

「私が悪いなら謝るから、こっちを向いて…」
 さん、――――と。
 手を触れようとした、そのとき。
「あなたには、」
 は、静かな声で言った。

「―――関係ない」

 感情を押し殺した声。
 蓉子は目を見開き、立ちすくんだ。
 重い沈黙が圧し掛かる。
 は虚空を睨みつけ、蓉子を振り返ろうとせず。
 蓉子もまた、呆然との背中を見つめていた。

 いつまでそうしていたか。
 は、小さな、掠れるような声に気づいた。
「…っ、…れが…」
 肩越しに振り返り、息を呑んだ。

「ッ…それが、いちばん…、…のよ」

 怒ったような顔で、蓉子は―――泣いていた。
「関係ない≠チて…言葉が、いちばん……」
 冷たいのよ。――――彼女は、そう言いたいに違いなかった。
 けれど、声が続かない。
 あとに温室に響くのは、蓉子の嗚咽だけだった。
 は呆然と、その光景を見つめていた。


 泣かせるつもりなんてないんだ。
 泣いてほしくなんてなかった。
 そんなこと、思うはずがない。


 蓉子の頬を伝う涙に、は唇を噛んだ。
「蓉子、さん…」
「っ…」
 泣き続ける彼女に、は伸ばしかけた手を引いた。
 ためらうように、視線を泳がせる。


 どうしよう。
 どうすればいい。
 ただうろたえるだけの自分が、もどかしかった。
 いつもそうだ。
 自分は、いつも蓉子の前では、こうしてうろたえることしかできない。
 なぜだろう。
 気持ちは確かなものとして、ここにあるはずなのに。


「……、蓉子さん…泣かないで」
「……」
「泣かないで…」
 蓉子に触れる手前で、両腕はまた止まった。
 指先が震えている。
 なぜ。
「蓉子さん…」
 顔を覗きこみ、は眉を寄せた。

 この両腕は、どうすればいいのだろう。
 この感情は、どうやればいいのだろう。

「――――…」
 は目を伏せた。
 どうしようもない、戸惑い。
 これが、を苛立たせていたことに、今、気づいた。
 気づいたけれど、気づいたところでどうしようもなかった。
 は、戸惑いつづける。

 不意に、蓉子が動いた。

 とん、と。
 肩に、重み。
 背中に、ぬくもり。
 抱きしめられていると気づいたのは、しばらくしてからだった。
「よう、こ…さ「さん」
 肩口に顔を埋め、蓉子が言った。
さん、泣かないで」
「な、く…って、それは―――」
 それは、あなたでしょう。

 言いかけて、口をつぐんだ。
 浮かせた片手を、自分の頬に持っていく。
 涙だった。

さん」

 子どもに言い聞かせる母親のような口調で、蓉子は言った。
さん。思ったことがあるならちゃんと言って。私は聞くから。待っているから。どんなに時間がかかっても、伝えることを諦めないで」
 回された腕が、きゅ、と強められる。
「何があったの? どうして泣くの? なぜ私を避けていたの?」
 ひとつひとつ、ゆっくりと問われ、の思考も動きはじめる。
「何も…なかった。ただ…」
「ただ?」
「ただ、わからなくて…わからないことが嫌だった」
「…そう。なにが、わからなかったの?」

 蓉子が、ぽんぽん、と背中を叩く。
 子どもをあやすように、何度も、何度も。
 それに促されるように、は言葉を探した。
「どうしていいのか、わからない。あなたの前だと、私はうまく振舞えない。どうすればあなたを傷つけずに済むのか…そればっかり考えて」
 だから、わからなくなる。

 蓉子の後ろに回した腕は、けれど彼女に触れることができず。
 はそんな自分の両腕を見つめながら、続ける。
「ちゃんとわかってるのに。私の感情は、ちゃんとここにあるのに…ッ」
 もどかしさを滲ませた声に、蓉子は小さく頷いた。
「どうすればいいの。私、どうしたら伝えられる? 大事なことを、あなたに伝えてない。ぜんぶ伝えたいのに、どうしたら…!」
さん」
 囁きかけるような声音。
さん、落ち着いて。大丈夫。そんなに焦らなくていいわ」
 焦る。
 この苛立ちの正体は、それだった。
 ふしぎだ、とは思った。
 彼女はいつも、自分以上に自分の感情を的確に表現してくれる。

「少しずつでいいのよ。今すぐじゃなくていいの。ゆっくり、ゆっくり、言葉を探していきましょう」
 でも、とは言った。
「蓉子さん。どんな言葉も、私の感情についていけない。どんな言葉も、伝えきれることはない」
「だけど、さん。言葉は重ねるものよ。一言じゃ言い尽くせないなら、ひとつずつ、積み重ねてみたらどう?」
 穏やかな声には、説得力があった。
 は、目を伏せる。

 可能かもしれない。
 できるかもしれない。
 蓉子が言うなら、もしかしたら。

 そっと、瞼を閉じる。
 宙で止まっていた腕を、ゆっくりと、蓉子の背中に降ろした。
 閉じた瞼から、零れていく涙に気づいた。
 けれどは、拭おうとはしなかった。



これは、彼女を想う涙だから――――…



 は、微笑んだ。



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up data 04/7/28