紙ヒコーキ



 しん、とした教室。
 鉛筆の音しか聞こえない、静かな空気を、ふいに、一閃。
 紙ヒコーキが、切り裂いた。


 ざわめいていたクラスメイトたちが、彼女の姿が現れた途端、静まり返った。
 彼女は一向に気にした様子もなく、平然と自分の席へ戻っていく。
 そのあとすぐに、先生が教室に入り、壇上に上がる。

「今日のテストはここまで。結果発表は来週です。以上」
 そう告げると、先生はクラス委員に目をやった。
 視線を向けられたクラスメイトが、慌てて立ち上がり、号令をかける。
「起立、礼、ごきげんよう」
 ごきげんよう、とクラスがつづく。
 先生がそれに返し、ちらりと彼女を一瞥した。
 けれど、なにも言わずに教室を出て行く。

 教室は、ふたたびざわめきはじめた。
 クラスメイトたちは、ちらちらと、たったいま職員室から帰ってきた彼女をうかがっている。
 私も、彼女を見やった。

 
 このクラスの生徒であり、そして、先ほどのテスト中、テストの答案用紙を紙ヒコーキにし、飛ばしてしまうということをやってのけた人だ。
 当然、先生が止めに入り、彼女はテスト終了後、職員室に呼び出された。
 さんは悪びれた様子も、まして反省した様子もなく、背筋をぴんと伸ばし、そこに座っていた。
 視線に気づかないわけではないだろう。
 けれど、さんはただまっすぐに、虚空を見つめていた。

 私は立ち上がり、彼女の席へ近づく。
 それだけで、クラスの空気が緊張した。
 さんも気配に気づいたのか、こちらを見上げる。
さん」
「なに?」
「どうしてあんなことをしたの?」
 さんは笑った。嘲ったのだろうか、私を。

「気に入らない? 紅薔薇さま」
 挑発的な口調に、私は微笑を浮かべる。
「気に入らないわけではないわ。ただ、ふしぎなだけ」
「そう。じゃあ、黙秘ってことでいい?」
「そうね、あなたに答える義務はないわね。でもこちらには、テストを中断させられたのだから、理由を訊く権利があるはずよね」
 さんはきょとんとして、それから爆笑した。
 物静かな人だと思っていたけれど、どうも違ったようだ。

「そんなにテストが好きなの?」
「好き嫌いじゃないわ。どちらにせよ、受けなければならないものだから、嫌なことはさっさと終わらせたい性質なのよ」
「嫌なこと? 優等生でもそう思うのね」
「優等生かどうかは知らないけれど、少なくとも、進んでやりたいことでないことは、たしかね」
「ふふっ」

 さんが機嫌よく笑う。
 息を詰めて見守っていた(あるいは傍観していた)クラスメイトたちが、ほっと安堵したのが見えた。
 私たちがケンカをするとでも思ったのだろうか。
「あなた、思っていたのと違うみたいね」
「あなたこそ」
「気が変わったわ。理由、教えてあげる」

 さんが目じりの涙を拭きながら、私を見上げた。
「私も嫌いなのよ、テスト」
 私は目を瞬かせた。
「え?」

 意外といえば意外だった。
 けれど、意外でないといえば、まったく意外ではない。
 そりゃあ、嫌いなものは誰だってやりたくないだろう。
 でも、そんなのって。
「そんなのって、ありかしら?」

 呟いた言葉を聞くと、さんは満面の笑みで答えてくれた。
「学生はまなぶことが本分≠ニ言うけれど、人間個人には、誰の干渉も、受ける義務はないと思うわ」
「屁理屈ね」
「屁理屈も理屈のうちよ」
 たしかに言いたいことはわかる。とてもよくわかる。
 けれど、それは通用しないだろう。

 私の言いたいことが伝わったのか、さんは口元だけで笑った。
 目は、挑戦的な光を宿している。
 もしかしたらこの人は、案外、好戦的なのかもしれない。
「通用しなくてもいいわ。黙って従う自分が許せなかっただけ」
 だから行動に出たのだと、さんは言った。

 彼女はふだん、とても大人しかったと記憶している。
 物静かで、ひとの言うことに逆らうことはない。
 それが私の印象だった。
 でもそれは間違いだった。とんでもない。
 彼女ほど自分の信念を持っている人は、そうそういない。
 そしてそれを貫こうとするなら、なおさら。
 なんて、間違い。

「あなたは、決めたのね」
 自分の意思で生きることを。
「えぇ。でも私、あなたはそうじゃない人だと、思っていたけれど」
 さんは笑った。
 まるで旧知の友人にでもそうするように、親しみをこめた笑顔で。
「あなたも本当は、決めていたのね」
 自分の生き方を、とさんが言った。

 私は苦笑を返す。
「そうじゃないわ。ただ、そうであるしかないだけ」
「でも、そうでない自分であることもできた。だけどあなたはあえて選んだのよ。人間は、選ばされているようでいて、結局は自分で選んでいる」
「そうかしら」
「そうなのよ」
 言い切るさんを見て、それなら、そうなのかもしれない、と思った。

「私、あなたのこと、ずっと気に入らなかった。ただ従って生きるだけの人だと思っていた」
 でも、と、さんは自分のかばんを手に取って立ち上がり、私を見る。そして。

 す、と。さんが私に顔を近づけてきた。
 背後で同級生たちが黄色い声を上げる。
 吐息が唇にかかったかと思うと、それはするりと横に逸れた。
 耳元にひっそりと、その声が囁く。

「けっこう、私好みの人だったのね。蓉子、さん」

 顔を離すと、さんはあの挑発的な笑みを私に見せて、私の横を過ぎていった。
 私は呆然とその背中を見送る。
 視界の端に、顔を真っ赤にしている級友たちが見えるけれど、それどころではない。
 心臓が弾くように勢いを増し、身体の内側から燃えているように熱い。
 混乱する頭で、そういえば、彼女に名前を呼んでもらったのは初めてだ、と気づき、眩暈がした。
 私は顔を隠すように、口元に手をやった。

 ああ、そうだった。
 そのときようやく思い出した。
 私は、が好きだったのだ。



---------------------------
up data 04/12/19
マリア様好きに50のお題「22:テスト」
配布元=360℃(閉鎖)