呼声



 中庭の片隅で、はベンチに座り、ひざの上に寝ている聖を見下ろした。
 穏やかな風が、二人の髪を撫でる。
 聖が身じろぎをした。

「――――栞」

 小さく呼ばれた名前に、は目を伏せた。
 そっと、聖の髪を撫でてやる。
 すると、聖はいくらか表情を和らげた。
 軽く頬を撫でてから、手を止める。
 空を見上げ、深く息を吸い込んだ。

(まだ、いるのね)

 聖の中には、まだ、彼女がいる。
 そしてこれからも、それは変わらないだろう。

 は目を瞑った。

 聖の中に。
 その心の奥に。
 大事に、大事にしまわれて。
 深く、刻みつけられて。
 それはけっして、忘れることのできないものとして。
 鮮やかな、刻印として。
 残る、名前。

 ゆっくりと瞼を開き、再び聖を見下ろした。
 静かな寝息が聞こえる。
 色素の薄い髪を撫でると、聖の唇が小さく動いた。

 よく知った名前が形作られる。
 ここにはいないひと。
 けれど、だれよりも強い光として、聖の心に住んでいるひと。

 は聖の額を指先で撫でて、呼びかける。
「聖」
 一拍おいて返ってきた名前は、自分のものではなく。
 は笑った。
 そんなこと、わかっていた。

 今、眠っている聖の中に、自分はいない。
 髪を撫でても、手を握っても、口づけをしても。
 聖の中には、入れない。
 彼女の夢にいるのは、いつだってひとりだけ。
 まるで傷痕のように、痛みを伴いながら存在する。


 天使。


 けっして手の届かない存在に、聖は恋をした。
 自分に欠けているものを埋めるように、天使を欲した。
 その腕に抱くことを望んだ。
 けれどそれは、叶わなかった。

 その別離から、まだ一年も経っていない。
 かなしみを忘れるには、短すぎる時間。

 いつか、来るのだろうか。
 聖が、彼女の名を呼ばない日が。

「……」
 は自嘲的に笑い、首を振った。

 来ない、と思う。
 聖にとって、彼女はあまりに大きすぎた。
 まるで半身のように愛したひとを、忘れる日が来るはずがない。

「いっそ、諦めてしまいたいよ」
 ひとり、呟く。

 いっそ、振り切ってしまえればいいのに。
 それでも待ちつづけてしまう自分がいる。
 いつかはきっと、いつかはきっとと、夢見てしまう自分がいる。
 聖の夢の中に、自分が現れる日が来ることを。
 彼女でなく、自分の名前を呼んでくれる日のことを。
 夢見てしまう。どうしても。

 は、深く息を吐いて、空を仰いだ。
 青い、青い空。
 澄み渡るその青さに、目を細める。

「――――…」

 ひざの上で、安らかに眠る彼女の声。
 届かない祈り。
 は目を瞑った。

 祈りつづけている。
 聖も、自分も。
 祈りつづけている。

 叶わないと、知りながら。


 聖の夢を、消すことはできない。
 聖の夢に、入ることはできない。

 だから。

 ――――この涙は、無意味なのだ。


 は、笑った。



---------------------------
up data 04/8/7
マリア様好きに50のお題「20:夢」
配布元=360℃(閉鎖)