孤独



もう知りたくはないんだ。
あの頃のかなしみを。
もう戻りたくはないんだ。
虚しさばかりの日々に。
傍に居てほしい。
抱きしめていてほしい。
それだけでいいから――――、





 鬱陶しいほど、身体が重かった。
 瞼も思うように開かない。
 暑い。そう思った。

「…さん、起きた?」
 静かに呼びかけられる。
 聞き覚えのある声に、私は薄っすらと目を開けた。
「…よう、こさ…」
 声が掠れる。上手く出ない。
 蓉子さんはそっと私の額を撫でると、無理をしなくていい、と微笑んだ。
「覚えてる? 学校で倒れたのよ」

 そういえばそんな気もする。
 確か、今朝から体調が思わしくなくて…。
 昼に倒れて、保健室に運ばれて、それからタクシーを呼んで。
「…な…で…?」
 ここにいるの、と問いかけたかったが、声が出ない。
 それでも察してくれたらしく、蓉子さんが説明してくれた。

 学校で倒れたあと、私はタクシーで帰ることになったけど、もうそのときには熱は38℃を越していたらしい。
 意識も朦朧として、話しかけると、よくわからない的外れなことを言っていたらしい(それが可愛かったと言われてしまった。…蓉子さん)。
 一人で帰すには心もとない。
 そういう理由で、蓉子さんも早退することにしたらしい。

 たしかに、その判断は正しかった。
 現に、私はタクシーの途中から記憶が途切れ途切れで、ほとんど気を失いかけていたように思える。
 蓉子さんが居なければ、タクシー代だって払えたかどうかわからない。

 蓉子さんは私の額のタオルを取ると、氷水につける。
(いま、なんじだろう…)
 氷のぶつかり合う音を聞きながら、ぼんやりと考えた。
「いま、五時をちょっと過ぎたところよ」
 私の汗を拭き取りながら、蓉子さんが言う。

 …エスパー?

 ちょっと鋭すぎるだろ、と思いつつ、声が出ないので頷く。
 身体がだるい。
「吐き気はない? 食欲は?」
「…ど、ちも…ない…」
 蓉子さんが、そう、と頷いて、タオルを私の額に乗せる。
「風邪薬は、どこに?」
「…リビング、の…、っごほ」
 口を塞いで咳き込む。
 身体を動かすと、関節が軋んだ。

「…っつ」
「無理しないで、寝ていて。取ってくるから」
「っ、待っ」
 待って、と蓉子さんの腕を掴む。
「? なに?」
 そっと顔を覗きこんでくる蓉子さんに、私は必死で声を出した。
「薬…食後」
「……そう。でも、一応用意してくるわね」
「…ん」

 掴んだ手を放すと、腕がずるりと落ちた。
 もう動かせない。声も出ない。
 ぐったりとベッドに沈んでいると、蓉子さんが私の腕をベッドの中へ戻してくれた。
 蓉子さんが出て行くと同時に、私の意識も闇の中へ消えていった。



 ――――夢。
 夢を見ていると、わかった。
 暗い、暗い部屋。
 自分の家だ。
 私は思った。
 この暗い部屋は、自分の家のリビングだ。
 けれど、おかしい。

 ここは、こんなに広かった?
 ここは、こんなに大きいか?

 まるで、子どもの視点から見た家のように。
(…ああ)
 そうだった。夢なのだ、ここは。
 だから、自分が子どもの視点に立つことだって、容易だ。
(やだな)
 胸のうちに、ひどく苦いものが湧き上がった。

 嫌だ。ここは。
 暗い。寒い。
 冷たい場所。
 まるで凍りついたように。
 誰も居ない。
 なにもない。

 圧倒的な、孤独。

 ずくっ、と心が疼いた。
 泣き叫びたい衝動。
 怒り狂いたい激情。
 何もかもを引き裂いて、粉々に砕いてやりたい。
 そしてすべてを、なかったことにしてやりたい。

(いやだ。ここは、いやだ)
 なんて哀しい。
 なんて虚しい。
(早く出たい。ここから出して!)


―――たすけて…!


 はっ、と目を見開いた。
 視界に、蓉子さんの姿が映る。
「大丈夫? うなされていたみたいだけど」
 心配そうな声。
 私は無意識に詰めていた息を一気に吐き出した。
「…っは、あ。…はっ…?」
「何か、悪い夢でも見たの?」
 そっと近づけられた顔を、私は呆然と見つめていた。

 夢。そうだ。夢を見ていたのだ。
 私は荒くなった息を整えながら、自分に言い聞かせる。
 ただ夢を見ていただけだ。それだけだ。
 それだけなのに。

「――――っ」
 なぜ泣く必要があるのか。
 なぜこれほど哀しむのか。
 わからなかった。
「…そう、怖かったのね」
 怖い。
 その一言が、すとんと胸に落ちた。
 怖かったのだ、私は。
 あの空間が。あの感覚が。
 忘れられない、刻みつけられた孤独が。

 そ、と。蓉子さんの手が、頬に触れた。
さん、もう大丈夫よ。もう、独りじゃないから」
 言い聞かせるような、やさしい声。
「大丈夫」

 ふと、握られた手の平に気づいた。
 強く、爪まで食い込むほど固く繋がれた手を見た瞬間、私の中で何かが弾けた。
「っ!?」
 蓉子さんの身体に腕を回し、その胸に顔を埋める。
 蓉子さんはベッドに膝をつき、勢いで倒れそうになるのをなんとか堪えた。
「! さん!?」
 体勢を立て直し、離れようとする彼女に、私は必死でしがみつく。
 縋るような気持ちだった。
さん…っ」
 けれど私は、腕によりいっそう力を込め、その声を無視した。

 背中に、手を触れられた。
 そっと、何度か擦られているうちに、何かが押し寄せるようにこみ上げてきた。
「っ…」
 泣いている。
 自覚するのに、しばらく掛かった。
 人前で泣くことが嫌いだったのに、彼女の前では、不思議と不快ではなかった。

 しばらくして、私はぽつりと、呟くように言った。
「……初めて」
「…え?」
 蓉子さんが聞き返す。
「初めて、なんだ。私。…看病されるの」
「――――そう」
「ずっと、風邪引いたとき、一人で家に居て。…いつも、独りで」
「うん」
「これからもずっとそうなんだって、思ってたんだ。だいぶ前の話だけど」
「…うん」
「だから、」
 ぎゅっ、と蓉子さんの服を掴む。
 離さないように。離れないように。

「だからこんなふうに、誰かに抱きしめられるなんて―――思ってなかった」

 声が掠れる。
 私は深く息を吐き、切なさに笑った。
「いいな、こういうの。もっと早く、知りたかった」


 涙が、頬を伝った。



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up data 04/7/19