眼差し



「ごきげんよう――――って、あれ?」
 薔薇の館の会議室に入るなり、は首を傾げた。
「蓉子さん、ひとり?」
「ええ、そうよ」
 蓉子は一旦手を止めて、に向かって微笑んだ。

 は椅子に座りながら、不思議そうに室内を見回す。
「…みんなは?」
 今日は、仕事が溜まっているから手伝ってほしい、と蓉子に頼まれたのだ。
 自分の手を借りるくらいだから、メンバーは全員揃っているものと思い込んでいたが。
「江利子と祥子は家の用事。由乃ちゃんは風邪で休み、令は看病。志摩子は委員会で、祐巳ちゃんは山百合会のおつかい。聖は来てないわ」
 聖、のところで、蓉子は呆れたようにため息をついた。

 は苦笑する。
「大変だね」
「本当よ。まったく、この忙しいときに聖ったら…」
 蓉子が頭痛を堪えるように、こめかみを指で抑えた。
 それを横目で見やって、は書類を半分、自分のほうへ寄せる。
「…忙しいのは見ればわかるけど、蓉子さんもあんまり根詰めないようにね」
 そう言って、黙々と仕事をはじめるの横顔に、蓉子は微笑した。



 一時間ほど経ったところで、蓉子が席を立った。
「少し休憩にしましょう」
 その言葉に、は頷いて、深く息を吸う。

 一拍息を詰めて、大きく吐き出した。
「あー、これを毎日やるのか、薔薇ファミリー」
「忙しい時期はだいたい決まっているけどね。何が飲みたい?」
「え、ああ、自分で、「手伝ってくれているお礼」
 席を立とうとするを制して、蓉子が微笑む。
 は一瞬思案すると、蓉子さんと同じもので、と適当に答えて、椅子の背もたれに身体を預けた。

 蓉子が流しのほうに消えるのを見送って、窓の外を見やる。
 もともと、緑の多い敷地だが、ここはいっそうそれが目立った。
(いいところだな…)
 風が吹いたのか、木々がしなやかに揺れた。
 喧騒が遠い。
 それが、には心地良かった。

 ぼんやりと外を眺めていると、横からすっとカップが差し出された。
「コーヒーでよかった?」
 は頷き、礼を言って受け取る。
「落ち着くね、ここ」
 蓉子が席に座るのを見計らって、言った。

「人が遠い」

 くす、と蓉子が笑う気配がした。
「なに?」
「ううん。ただ、さんらしいなって思って」
「私らしい?」
 は首を傾げた。
 蓉子は頷いて、がそうしていたように、窓の外を見やる。
「人が遠い≠チて表現の仕方。さすが、文芸部ね」
「…部活は関係ないと思うけど…」
「じゃあ、詩人」
「詩人って…」
 小さく笑っている蓉子を見て、は頬を掻いた。
 困ったような仕草だったが、口元には笑みが浮かんでいる。

 蓉子がひとしきり笑い終えると、数秒、沈黙が降りる。
 は、何とはなしに、天井を仰いだ。
「それにしても、静かだね」
 その言葉に、蓉子は何かを思い出したように、ため息をついた。
「みんながいれば、もう少し賑やかなんだけれど…」
「そうなんだ」
 の相槌に促されるように、蓉子が続ける。

「仕事の途中は静かなんだけどね。いつも、江利子か聖あたりが、誰かにちょっかい出すのよね」
「へぇ」
「仕事が忙しいっていうのに、最近は聖が祐巳ちゃんに構いっぱなしで。それに祥子が乗って、江利子は面白がってときどき煽るし」
「そっか」
 ちょうどいいタイミングで合いの手を入れられるせいか、蓉子は次第に愚痴のようになっていった。

「他の子たちは、下手に手を出すと余計こじれるってことがわかっているから、何もしないのよね」
「ああ、触らぬ神に祟りなし、ってやつね」
「そう。結局、それじゃあ仕事が進まないから、私が止めに入るんだけど」
「けど?」
「調子に乗っているときだと、私まで巻き込むのよね」
「ああー」
 は想像してしまったのか、可笑しそうに笑った。
「笑いごとじゃないわよ。…まあ、最初は祥子のガス抜きのためだと思っていたんだけどね」
 あの子、溜め込むタイプだから。―――そう付け足して、一旦言葉を切る。

「でも、それだけじゃないのよね」
「ふぅん?」
 は片眉をあげて、首を傾げる仕草をした。
「聖ったら、祐巳ちゃんのことやたらと気に入っちゃって」
「なるほど」
 視線で続きを促しながら、テーブルに肘をついて、あごを乗せる。

「祥子がいないところでもちょっかい出しているみたいだし」
「ああ、そういえば見たことある」
「そう。人目を気にしないから、余計厄介よね」
「噂とか流れてたっけ」
「まだそこまでは行ってないみたいだけど…時間の問題ね」
 蓉子は嘆息して、カップに口をつけた。
 なんだか今日は、やけにため息が多いみたいだ。
「祐巳ちゃんに逢って、ずいぶん良いほうに変わったけど、少しは自覚してほしいわ」

 だいたい聖は―――、そう愚痴りかけて、ふと口をつぐんだ。
 の視線が、やけに優しいことに気づいたのだ。
「…なに?」
「ん? いや…続きは?」
「……そんな目で見られると、言いにくいんだけど」
「そんな目って?」

 聞き返しながらも、は穏やかな微笑を崩さなかった。
 柔らかく目を細め、蓉子をまっすぐに見つめている。
 愛おしむような、慈しむような視線に、蓉子は頬を赤らめた。
 それを眺めていたが、くすくすと笑い出す。

さん!」
 怒ったような顔をしても、紅潮していては意味がない。
「べつになんでもないよ」
 込み上げる笑いに震えた声で、は言った。
「ただ、ね」
「…ただ、何よ」
「いや、ちょっと」
 困ったように、それでいて可笑しそうに、は眉を寄せて、微笑んだ。


「好きだなぁ、って思って」


 刹那、静寂。
 木々の葉が擦れる、さざ波のような音がした。
 自分を見つめるの、穏やかな、愛しさに満ちた瞳に、蓉子は不思議な充足感に包まれた。



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up data 04/7/21