はじまりは空の色 中庭の片隅で、少女が震えていた。誰の目もつかない場所で、うずくまるようにしゃがんで、小刻みに肩が揺れている。 寒さのせいでないことは、明らかだった。 立ち止まり、一瞬思案し、踵を返そうとした瞬間、少女が顔を上げた。 目が合った。 涙に濡れた瞳が、こちらを見ている。 とくにお節介な性格というわけではないが、その顔が見知ったものだったため、つい足を止めてしまった。 (ああ…) 諦めにも似た心境で、乃梨子はポケットに手を入れたのだった。 「ジェントルメンチックー」 「は?」 意味のわからない造語に、乃梨子は半眼でパンを頬張っている友人を見やった。は軽く肩をすくめて言う。 「泣いてるマドモアゼルにハンカチ差し出すなんて」 「(マドモアゼルて…)うるさいなぁ。だって見て見ぬふりできないじゃない。クラスメイトじゃさ」 「あたしだったら速攻トンズラかますけど」 「あんたはね」 それはそれでひととしてどうだろう、と思いつつも口には出さない。出しても無駄だからだ。 嘆息しながら、乃梨子は手元のハンカチに目をやった。 きちんとアイロンまでかけてあるそれは、先ほどクラスメイトが持ってきたものだ。 冒頭の少女が、今日それを返しに来た。それを見ていたが怪訝そうにしていたので、昨日の放課後に起こったことを話したのだった。 「でもこれで芽生えちゃうかもね」 「なにが」 「Koi」 「(……)」 「これぞまさに、MajiでKoiする5秒前ってヤツね」 「古い上に歌関係ないし」 「しちゃう? 恋しちゃう?」 「しないっての。女同士だし。っていうか、きもちわるい顔しないでよ」 「ひどーい」 「猫なで声もやめろ」 ばし、と顔面を軽くはたく。 はにやにやと笑いながら肘をつく。 「でもねぇ、関係ないと思うよ」 「え?」 「性別」 「は?」 いきなりなにを、と戸惑う乃梨子をよそに、は続ける。 「さん的には、女同士とか男同士とか、恋するのにそーいうのは関係ないと思うね」 あ、いいこと言ったあたし。―――ひとり自分のセリフに浸る友人に、乃梨子は冷たい視線をくれる。 「あんたねぇ、なに言い出すかと思えば…」 「あれ、乃梨ちゃんは否定派?」 「乃梨ちゃん言うな。べつに否定もしないけど、私は違うと思うよ」 「恋したことある?」 「ないけど…女の子にもそういう興味はないし」 ふーん、と相槌を打っているを見やり、だいたい、と繋げる。 「ハンカチ一枚で恋なんかはじまるわけないじゃない」 「それはどうかなー。案外あるかもよ?」 「そんな古典的なシチュエーション、いまどき流行らないでしょ」 「流行る流行らないなんて関係ないわ! 愛があれば大丈夫!」 「さむっ」 突っ込んで、ため息。 心底疲れたようなそれに、が笑いながら言う。 「なに? 不幸逃げてくよ?」 「あのね、…もういいや。私そろそろ時間だから、行くね」 「薔薇の館?」 無言で頷いて弁当箱を片付け始める乃梨子を、手に顎を乗せながら目で追う。 の視線に気づいた乃梨子が、怪訝そうに目を上げた。 「なに」 「やー、ハンカチーフではじまる恋ってステキだなーと」 「(ハンカチーフ…)まだその話題なの?」 「あらやだ乃梨ちゃんてば。いまどきの女子コーセーのノリじゃないわよ」 「はいはい」 ため息混じりに適当に相槌を打って、立ち上がる。 それじゃあね、と一言かけて離れていく背中に、は小さく呟いた。 「いいと思うけどね」 そういうのも。―――届かなかった声は、虚空に溶けて消える。 それを見つめるように目を細め、深いため息をついて天を仰いだ。 「やっぱ、忘れてるかぁ」 苦笑のような、自嘲のようなものを浮かべ、目を瞑る。 これ、使ったら? ―――ハンカチ一枚のはじまり。 |