唯一にして最大の弱点



 未だかつて、こんなにも大きな困難に直面したことがあっただろうか。
 私は教室の片隅で、がっくりと膝をついて項垂れていた。
 クラスメイトたちの視線がちょっと痛いが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「…っ、どうしよう…」
 今の私の顔面は蒼白だろう。
 それぐらい、私にとって"それ"は重要な問題だった。

「どうしよう、この……明らかに人が口に入れるべきでない物体を…!」

 そう。別名"魔の一時間"と(主に私に)称される授業―――調理実習。
 目の前にあるこの、きれいに箱詰めにされた物体は、そこで出来上がったものだった。
 作る予定だったのはクッキーで、形も上手に焼き上げられた。匂いも申し分ない香ばしさ。
 ただ…そう、ただ。
 食べ物として、致命的な欠陥を抱えていた。

 それは―――味、だ。

 見かけにほだされた犠牲者一号、家庭科教師(推定35歳、女性)は、一口食べたあと保健室に運ばれた。合掌。いや、アーメン。
 あの人今日子どもの誕生日だって言ってたのに…親子の絆は大丈夫かな。
 ………。

(って、はっ。いや、問題はそんなことじゃなかった!)
 一時間の授業が終わって、もう放課後。
 帰り支度をしているクラスメイトたちは、私を尻目に次々下校。なんて非情な連中なんだ! ちょっとは助けてよ! かかわりたくないのはわかるけどさっ。

 とにかく。放課後。そう、放課後だ。
 私は調理実習がはじまる前の、休み時間の先輩を思い出した。


、次の授業調理実習だよね。楽しみにしてるからー!』


(なにが楽しみだっ、オノレ佐藤聖!)
 世の中のほとんど9割に興味がないあの欠食児童は、当然最近まで赤の他人だった私のことも、まったく知らないのだ。
 破滅的料理音痴という、唯一にして最大の欠点を。
(…どうする、どうするっ)
 これ以上犠牲者を出したくはない。
 まして、彼女は私にとって大切な先輩であり、友だちだ。
 こんなもの、食べさせたくはない。
 私はようやく立ち上がり、両手で拳を作って虚空を睨みつけた。


 よし、逃げるぞ!


「やほー」「いきなりラスボス!?」
「…は?」
 ずさっ、と仰け反って意味不明なことを口走る私に、聖は怪訝そうな顔をした。
「どうしたの、
「い、いや…なんでもないデスヨ。うふふふふ」
「………うわすっげ怪しい」
「すっげとかゆーな、白薔薇さま」
 だいたいほかの生徒に示しがつかんだろう、とか思い周りを見回すと、あらふしぎ。
 今までいたはずのクラスメイトどころか、廊下にも人っ子ひとりいなかった。
「……イリュージョン?」
「いやだってもう放課後だし」

 そらそうだけどさ。さっきまでいたじゃん。なんて都合のいい展開なんだ!
 とか思いつつ、私は聖に向き直った。
 ちなみにクッキーの入った箱は、背中に隠している。
 ここはばれないように、素知らぬふりで切り抜けよう。
「ところで、クッキー作った?」
「えー、なんのことですかぁ?」
「だから怪しいってば」
 私の怪しさをどう解釈したのか、聖はにやりと笑った。
「さては失敗したな?」
「(ぬぁ!?)…何を仰るうさぎさん。私が失敗などとそのようなこと…むわっはっはっは」

 よし、ここはクールかつスマートに退場しよう。
「それじゃあ白薔薇さま、ごきげんよう」
、会話が思いっきり切れてるよ。そしてカニ歩きはリリアンの生徒としていただけないな」
 悪かったなっ、どうせ私は中等部からの似非リリアンナさっ!
「で、帰るならその背中に隠してる箱を置いてってからにして」
「(ばれてる!!)」
 聖が手を伸ばしてきたので、身を翻してそれを避ける。
 舌打ちした。するなよ白薔薇。
「な、なんでわかったの?」
「なんでって…来たとき思いっきり背中に隠したじゃない」
「……」
 私ってバカなんじゃなかろうか。

「っと、とにかく、これはあげられないの!」
「えーなんでー? くれるって言ったじゃない」
「言ってないっ、楽しみにしてるって言い逃げしただけっしょ」
「沈黙は肯定と見なします」
「そんな詐欺まがいの手法は認めません!」
「ちぇー、いいじゃない。けちんぼ」
 いや、けちんぼって子どもみたいに唇尖らせないでよ。
 なんでこの人白薔薇さまなんて呼ばれてるの?

「それとももうあげる人がいるとか?」

 聖の言葉に、私ははっと目を見開いた。
 それだ!
「うん、そう、それ! あげる人がもう決まってんの。聖より先に約束したの」
「――――ふぅん」
 途端に、聖は大人しくなった。
 よ、よし。なんとか防げた。
「それじゃあ、私はもう行くね。ごきげんよう」
 聖の返事を待たずに、私は出入り口へ向かった。
 とにかくこの物体は箱ごと焼却処分だ。一刻も早く、あとかたもなく灰にしてしまわねば。
 そう思って足早に教室を出ようとしたとき、力いっぱい腕を捕まれた。
 引き寄せる、というにはあまりにも乱暴で、私は聖のほうへ倒れこんだ。

「っ!? な、なに? なにすんのっ」
「だれ」
「はっ?」
「だれ、それ」
 だれって何が。
 そう訊こうとして、口をつぐんだ。

 聖の目が、あまりに哀しそうだったから。

「……」
 …ああ、もう。
「そんな、心配しなくても大丈夫だよ。私は聖の友だちでしょ」
 言い聞かせるように言うけど、聖は聞いてくれない。
「だれなの」
「そんな目、しないでよ」
「…だれなの」
 不安に歪む聖の顔に、私は苦笑した。
「いないよ」
 聖は、目を見開いた。
「…え」
「いないってば、そんなの」

 一呼吸置いて、言う。
「私、料理音痴なの。破滅的に」
「………」
「だから、聖には食べさせられないから、うそついたの」
「……なにそれ」
 やっと笑った。
 私も微笑して、でもすぐにからかうように笑った。
「聖ってば、なんでそう寂しがりやかなぁ」
 う、とばつの悪そうな顔をする聖に、可笑しくて目を細めた。

「一つ年上とはとても思えないね」
「うるさい料理音痴」
「うぐっ」
 ぐっさり反撃。ちくしょう、三日も持たなかったぜ、私の天下。
「そんじゃ、そのクッキーは私を騙した罰として没収します」
「はぁ!?」
 ちょっとマテやおい!
「人の話聞いてた? これは食べられるようなもんじゃないの。友だちに猛毒注意≠チて言われるほど壊滅的なんだよ!?」
 自分で言ってて哀しくなるけど。
「だめー。慰謝料」
「……どうなっても知らないよ」
「どうなってもいいよ、の作ったクッキー食べられるなら」
「…そういうことはカノジョにでも言ってあげなよ」

 微苦笑して、無造作に聖の胸に箱を押し付けた。
「ほんとにどうなっても介抱しないからね」
「えー、介抱ぐらいはしてよー」
 そう言いながら、聖はクッキーをひとつ、摘み上げた。
 指先でもてあそぶように観察したり、匂いを嗅いだりしている。…見かけを信用しちゃならないよ、聖。
「…ね、
 それを口元に近づけながら、聖が言った。
「ただの友だちに、嫉妬したりはしないよ」
「――――…」

 ちなみに、その言葉の意味を私が訊くことはなかった。
 その理由は――――わかりきっている。



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up data 04/7/13