無意味



きみが笑う

手を伸ばす

頬に触れる

一歩近づく

きみは驚く





抱きしめる





 まるで時間が止まったようだった。
 私はじっと、蓉子さんの吐息を聞いていた。
 蓉子さんはなにが起こったのかわからない様子で、しばらく呆然としていたみたいだった。

「…、さん?」

 くぐもった声。
 私は顔だけ僅かに動かして、彼女を見やった。
「あの…」
 それ以上言葉が見つからないようで、蓉子さんは黙り込んでしまった。

 図書室の奥。人気のない、片隅。
 ほとんど人が来ない場所を、私は好んだ。
 だから休み時間や放課後は、まるで隠れるようにして、人目のつかない場所を選ぶ。
 そして、それを知っている蓉子さんは、いつもすぐに私を見つけてくれるのだ。
 今日も。

 けれど、人がいないわけではない。
 同じ室内には数人、生徒がいる。
 いつ見られるとも知れない状況で、私は蓉子さんを抱きすくめていた。

 だれかの足音が聞こえてきた。
 蓉子さんが私から離れようとする。
 私は離さない。
 音が近づく。人の気配。
 緊張に強張る蓉子さんの身体を、いっそう強く抱きしめた。

「……」
「……」

 音はやがて、別の棚のほうへ移っていく。
 遠のいていく足音に、蓉子さんは安堵のため息をついた。

「…さん」
 背中を軽く叩かれる。
 離して、という合図だとは、気づいた。
 でも、離さない。
「……どうしたの?」
 冷静な、落ち着き払った声色。
 私は、自嘲した。蓉子さんに気づかれないように、静かに。

「…さん…」
 声。彼女の声。
 きれい。静かで、やさしい。
 おだやかな、音。


―――いっそこのまま、消えてしまいたい。


 一瞬よぎった想いに、私はきつく目を閉じた。
「…?」
 蓉子さんが私のほうを見ようと、顔を傾ける。
 いまの私を見られたくなくて、彼女の肩口に顔をうずめた。
「…さん?」
 耳元に、蓉子さんの息がかかる。
「本当に、どうしたの?」
 私は答えず、腕に力をこめた。


 ――――私は。
 手放したくないのだ。
 水野蓉子という存在を。
 この腕にいる、女性を。

 たとえば今、私がどんなに彼女を好きでも。
 どれほど深く、愛していても。
 彼女が私から離れる日は、きっと来る。
 刹那の夢からいつか醒めて、私を置いてどこかへ行ってしまう。

 それは、確証のない未来。
 けれど、否定できない現実。

 今、私に見せている笑顔が、いつか別のだれかに向けられるのだろうか。

 そう思うたび、焼けつくような想いに駆られることを、蓉子さんは知らないだろう。

 知っては、いけない。


 深く息を吸い、三秒。
 ゆっくりと吐き出す。
 腕をほどくと、蓉子さんがそっと身体を離した。
 目が合う。
「…珍しいわね、あなたが」
 こんなことするなんて、と、蓉子さんは僅かに私から目を逸らした。頬が微かに赤らんでいる。

 私は、不意に泣きそうになって、笑った。
「うん…なんとなくね」
 蓉子さんも、私に笑い返してくれる。
「ほんと、気まぐれなんだから」
 困ったような、それでいて、嬉しそうな、照れた顔。
 私にだけ見せる、特別な笑顔。

 私は蓉子さんから一歩離れると、静かに背を向けた。
「帰ろうか」
 胸が、焼けつくように痛んだ。



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up data 04/8/20