決別



「もう、弾かないの?」

 寝転がって天井を眺めていたわたしを、静がふいに覗き込んだ。

 ぼーっとしていたところに突然だったから、わたしは一瞬なんのことだかわからなかった。
 それを察した静が、言葉を付け足す。
「ピアノ」
 ああ、とわたしは声を発した。
 先週、合唱部の顧問に言ったのだ。もう、合唱部で――だけでなく、どこでも――ピアノは弾かないと。
「弾かない」
 短く答えて、静から目を外す。

 寝返りを打とうとしたわたしの肩を掴んで、静が無理やり引き戻した。
「どうして?」
 静の肩まで伸びた髪が揺れる。
 何度見ても見慣れないな、と思いながら、わたしは答えた。
「意味ないから」
 静はしばらくその言葉の意味を探していたようだけど、結局わからなかったみたいで、首をかしげて繰り返す。
「意味が、ない?」

 納得できないのか、静はさらに訊ねてきた。
「それって、どういうこと?」
 わたしは少しのあいだ静を見つめ、その髪に指先で触れた。
「だって、」
 さらさらと、まっすぐでなめらかな髪が指のあいだからすり抜ける。
「静はもう、歌わないでしょう」

 静はしばし、まばたきを繰り返した。
「イタリアで歌うわ」
「でも、わたしのピアノではもう、歌わない」
 そんなこと、と静は笑った。
「歌うわよ。のピアノ、好きだもの」
 わたしも笑い返して、ちがうよ、と言った。
「言い方、間違えたね」

 身体を起こしながら、静の両肩を手で押す。
 押し倒すように、静を床へやった。
 とくに抵抗するでもなく、わたしから視線を外そうとしない静を見て、噴出すように笑う。

「わたしは、わたしのピアノで静が歌ってくれないなら、弾かない。でも、」
 額を、瞼を、鼻筋から頬を、顎のラインを撫でて、続けた。
「静は、わたしのピアノでなくても、歌えるでしょう」
 やさしく、やさしく、笑いかけた。

 静はなにを言われているのかわからない様子で、わたしを見上げている。
 その真っ黒な瞳が好きで、わたしは戯れるように瞼にキスを落とした。
―――」
 私は、と静が言った。
のピアノ、好きよ」
 わたしも、と応える。
「静の歌、好き」

 だったら、という言葉を、だから、で遮った。
「もう、弾かない」
 静は。
「わたしがいなくても、歌っていた」
 わたしは。
「静がいなくちゃ、弾いてなかった」

 だから。

「だから、もう、弾かない」

 意味が、ないから。



 その言葉はまるで、「さよなら」を告げるようだったと、十年後に静が言った。



---------------------------
up data 05/5/14
マリア様好きに50のお題「10:ピアノ」
配布元=360℃(閉鎖)