天然×天然



 本棚のあいだを抜けて、奥へ、奥へと進むうちに、喧騒からだいぶ離れてしまったような錯覚に囚われる。
 この図書室はひとの出入りが激しいけれど、意外にも騒がしさはなく、妙に静謐な空気で包まれている。
 それがさらに入るひとを選ばせているのだろうか。ここはいつ来ても、落ち着いた雰囲気を保っていた。

 奥の窓際に佇んでいる生徒の姿を見つけ、私は早まりそうになる歩調を努めてそのままに保つ。
 彼女は騒がしさを嫌う。
さん」
 呼ぶと、さんは本に落としていた視線を、ゆっくりとこちらに向けた。
 黒い髪のあいだから覗いた瞳が、私を映す。

「蓉子さん…どうしたの?」
 近づく私に、さんは静かに首をかしげた。
 いつも思うけれど、彼女の雰囲気はこの図書室によく似合っている。
 まるで、さん自身が、この室内の空気を作っているような気さえする。

「うん…ちょっと」
「薔薇の館は?」
 さんが時計に目をやる。
 いつもならとっくに会議がはじまっている時間。
「今日は休みよ。江利子も聖も、用事があるらしいから」
「ふぅん」
 さんは相槌を打ちながら、持っていた本を棚に戻す。
 そのときに、ふと目に付いた。

さん」
「ん?」
「タイが曲がっているわよ」
 少し歪んだタイを見て、私は半ば無意識に手を伸ばしていた。
 半歩近づいて、タイを直す。

 ピンと張ってから、手を放して顔を上げた。
「はい、でき―――た…」
 あ。
「うん、ありがと」
 さんが微かに笑った瞬間、とっさに、しまった、と思った。
 慌てて視線を逸らそうとしたが、運悪く彼女がこちらを見る。
 目が合う。

(うっ…)
 至近距離で見つめ合う羽目になった。
 さんの、光の加減によっては茶色く見える瞳が、私にまっすぐに向けられている。
 その中に私を見つけ、焦りはさらに募った。

 顔が熱いのは気のせいだろうか。そう思いたい。赤くなっていないことを祈る。
 なっていたら、さんが気づいていないことを。
 手に滲むのは冷や汗だろうか。
 まずい。動悸が激しくなってきた。

「…?」
 不自然に空いた間に、さんが訝しげな表情をする。
 ついでに目も逸らしてくれれば、こちらもなんとか立て直せるのに。
 それなのに。
「蓉子さん?」
「ッ…」
 さんは私の額にそっと触れて、髪を掻きあげた。

 無意識なのはわかるけど、どうしてそう不意打ちで触れてくるのか。
 私は彼女の(意外な)天然さを恨めしく思った。

「な、なに?」
 ほら、どもった。
 私をここまで動揺させる人はそう居ない。
 祥子にロザリオ返上を言われたって、どもりはしないだろう。内心はショックだろうけど。

「いや…どうしたの?」
「…なんでもないわよ」
「? でも」
「なんでもないから」

 やっと目を逸らせて、私はほっとした。
 さんはふしぎそうな顔をしながらも、私から手を放す。
 ほっとした反面、がっかりしている自分に苦笑したくなる。
 こんな自分を江利子や聖が見たら、どう思うだろう。
 笑い飛ばされることは間違いないと思う。
 しかもお腹を抱えて、あまつさえ指まで差して。
 腹は立つけど、その反応に怒ることもできないだろう。
 自分でも、こんな自分が滑稽だと思うから。

「…恋って」
「うん?」
「ひとを変えるって言うけど、少し違うわね」
 さんが首をかしげる。
「恋はひとに弱点を作らせるのよ」
「…名ゼリフだね」
「実体験よ」
 ため息混じりに答えると、さんはくすくすと笑った。
 だれのせいだと思っているの。

「でも、いいんじゃない?」
「どうして?」
「そういうみっともない自分も、最近は好きだなって思うようになったから」
「え…?」

 どういう意味、と訊ねると、さんは苦笑のような笑みを浮かべた。
「蓉子さんって、けっこう天然だよね」
「――――…」
 それはあなたのほうでしょう。
 そう言いたかったけれど、さんのめったに見られない、満面の笑みを前に、私は声を出せなくなっていた。


 天然はどっちよ。



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up data 05/1/30