どうか そこに一歩足を踏み入れると、その独特の匂いに一瞬息が詰まった。 私はできるだけ静かに歩こうとしたけど、そこはひどく静謐な空気で満たされていて、私の意志とは関係なく音が盛大に反響した。 その音が聞こえたのだろう。 いままでずっとひざまずいて祈っていた彼女が、そっと頭を上げて振り返った。 やさしげで美しい顔が、私を見ると、花がほころぶような笑顔に変わる。 それがとても可愛らしくて、私は思わず口元を緩めた。 「ごきげんよう、さま」 「ごきげんよう、志摩子ちゃん」 志摩子ちゃんは立ち上がり、私に向き直る。 ちょうど、マリアさまに背を向ける形で。 ステンドグラス越しに差し込む光りが、志摩子ちゃんを妙に神々しくさせている。 来るたびにつくづく思う。 お聖堂は私には合わないと。 「ごめんね、お祈り邪魔しちゃった?」 「いいえ。ちょうど、終わったところですから」 とっさに嘘だと思ってしまった。 そんなことはないだろうとわかっていても、志摩子ちゃんは、放っておけば何時間でも、マリアさまの前にひざまずいていそうな子だから。 「さまも、こちらにお祈りに?」 「ううん。ただ、志摩子ちゃんに会いたくなって」 「あ…そうなのですか」 志摩子ちゃんは戸惑ったような表情を浮かべた。 微かに頬が赤く見えるのは…たぶん、気のせい。 「そういえば、乃梨子ちゃんは?」 最近、志摩子ちゃんの妹になった、下級生。 その前もそうだったけど、契りを結んだ頃から、いっそう一緒にいることが多くなった気がする。 「乃梨子は、今日はクラスの用事があるらしいので」 乃梨子、と口にした瞬間、志摩子ちゃんの表情が、しあわせそうに和らいだ。 胸がチリ、と痛む。 私はなんでもない顔で微笑んだ。 「志摩子ちゃんは本当に敬虔なクリスチャンだよね」 「そんなこと…」 「いや、ある。私なんか、マリアさまどころか、神も仏も信じてないからなぁ」 「信仰は自由ですから」 志摩子ちゃんは微笑む。 (それどころか、マリアさまには、嫉妬までしているんだけどね) 口には出さずに、心の中で苦笑した。 「乃梨子ちゃんは仏教だっけ?」 「いえ、乃梨子は仏像が好きですが、信仰はしていないらしいです」 「ああ…そんな感じするね」 「そうですか?」 「うーん、乃梨子ちゃんは神様を信じるタイプじゃないよね。どっちかって言うと、自分の目で見て判断するタイプのような…」 「…そうですね。そうかもしれません」 志摩子ちゃんは嬉しげに目を細めた。 「さまも、乃梨子と似ている気がします」 「そう?」 「はい」 まっすぐに見つめられて、私はどうしていいのかわからず、笑ってごまかした。 「そういえば、志摩子ちゃんはいつもなにを祈っているの?」 訊ねると、志摩子ちゃんは微かに笑んで、後ろを振り返る。 マリア像を見つめる眼差しには、憧れと尊敬、そして愛情がこもっていた。 「一日のことを。明日のことを。家族や友人や―――最近は、乃梨子のことも」 「祈ることがあるの?」 「祈る、というよりも、…感謝を、します」 「感謝?」 志摩子ちゃんは静かに頷いて、私を振り向いた。 「大切なひとたちと出逢わせてくれたことを。今日をしあわせに過ごせたことを。明日も大好きなひとたちが、笑って過ごせるように、とも」 「…ふぅん」 マリア像を見やり、頬を掻く。 祈る、という行為をしたことがない私には、いまいちピンと来ない話だった。 不意に、志摩子ちゃんがこちらを見ていることに気づく。 「どうしたの?」 「いえ…」 口元に手を当てて、微笑む彼女の顔は、しあわせそうで、そして愛情に溢れていた。 それは、マリアさまに向けるのとは違う、とても近くに感じられる、親しいものだった。 「こんなことを、ひとに話したのは初めてだと―――そう思って」 「乃梨子ちゃんにもないの?」 「えぇ、さまが初めてです」 私は顔が赤くなるのを自覚して、悟られないように志摩子ちゃんから視線を外した。 志摩子ちゃんがふしぎそうにしているのは、見なくてもわかる。 私はこっそり苦笑った。 告げてもいない、いや、告げていないからこそ、この想いに翻弄されるのは、自分だけなのだろう。 「ねぇ、志摩子ちゃん」 私はようやく気持ちを落ち着けて、志摩子ちゃんに振り返った。 「一緒に帰ろうか」 志摩子ちゃんは驚いたように目を見開いて、けれど、すぐにそれは笑顔に変わる。 「はい」 志摩子ちゃんを促して、私はお聖堂の出入り口に向かった。 その途中、一瞬ためらって、肩越しにマリア像を振り返る。 私の嫉妬や愛情を、見透かしたような微笑が目に入った。 しばらく見つめて、目を逸らす。 私を待っている志摩子ちゃんのほうへ歩きながら、心の中で願った。 どうか。 どうか彼女の祈りが、マリアさまに届くように、と。 |