風に消える



 

 同級生。
 クラスメイト。
 前の席のひと。
 やさしく微笑うひと。
 繊細な思いやりをするひと。
 私とほかの人を繋げてくれたひと。
 バランスのいい、整った字を書くひと。
 長い髪は色素が薄くて、日に透けるときれい。


「…聖さん、行儀悪いよ?」
 くすくすと笑いながら、さんは日誌にペンを走らせる。
「まだ終わらないの?」
 椅子にまたがり、せもたれに腕を乗せて、さんの手元を覗き込む。
 きれいな字が、日誌の上に載せられていく。
「まだ。なに、飽きたの?」
「んー」

 逆だ。
 本当は、ずっと終わらないでいてほしい。
 もう少し、彼女とこうして居たい。

 さんの横顔を眺めながら、私は気づかれないようにため息をついた。
 風が、開いた窓の隙間から吹き込んでくる。
 それに煽られて、さんの髪が揺れた。
 日に透けた、茶色の髪。
 私ほどじゃないけど、さんも色素が薄く、肌も白い。

「…聖さん?」
「ん?」
 不意に、さんがこちらを向いた。
 きれいな茶色の双眸が私を映す。
 その視線を向けられるだけで、私がどんなに嬉しいのか、きっとさんは知らないだろう。
「どうしたの、さっきから。私のこと見てばかり」
「…そう?」

 さすがにばれていたか。
 私は笑ってごまかした。
 もっと、引いていなきゃ。

「そんなことないよ」
「…ふぅん」
 訝しげな顔で、けれどそれ以上つっこんではこない。
 さんはいつもそうだった。

 あの子と別れてから、クラスに馴染むまでのあいだ、さんが橋渡しをしてくれた。
 彼女は、詳しい事情なんて少しも知らない。
 ただ、まだ立ち直れていなかった私を、彼女はずっとサポートしてくれた。
 私とクラスメイトを取り持って、たぶん取っ付きにくかった私に、積極的に関わって、ここまで引っ張ってきてくれた。
 彼女の存在がなければ、今の私はない。
 そう思えるほど、さんは私を支える、大きな役割を果たしてくれたのだ。

(でも、さんは突っ込んだこと訊いてこないなぁ…)
 蓉子との違いは、そこにある。
 面倒を見る、という点では一緒だけど、さんはあまり踏み込んでこない。
 表面上で、自分ができることをできる限りの形でやる。
 深い部分は、自分の領分ではないと考えているのか、私にあの子のことを訊ねてくることはなかった。
 たぶん、これからもないだろう。
 それがとても心地良かった。

 さんの手元に目を落とす。
 きれいな手。細い指。
 触れたい、なんて思わない。
 思わない…ふりをする。

 一歩、引いていなきゃいけない。

 お姉さまに言われたこと。
 さんに触れたら最後、私はまた、同じあやまちを犯してしまう。
 そんなのはいやだった。
 ずっと、なんてことは言わない。言えない。
 ただ、今だけ。
 この一瞬だけ、同じ場所に居たい。
 傍に居たい。

 だから。

「……終わった」
 さんが、日誌から顔を上げた。
 寂しさが、痛みとなって胸を刺す。
 私は気づかないふりをして、さんを見上げた。
「それじゃあ、届けてきてー」
「って、聖さん」
 さんは呆れたような顔をする。
 私は笑った。

「もうちょっとここに居たいからさ」
 ひとりになりたい。
 それは、そう言っているのと同じだった。
 さんは当然気づいただろう。
 何も言わず、そう、とだけ頷いた。
「じゃ、私行ってくるね」
「うん。行ってらっしゃーい」
 ひらひらと手を振って、彼女の背中を見送る。
 さんの足音が聞こえなくなったところで、私は張り詰めていた息を大きく吐き出した。

 触れたい。
 触れない。
 触れられない。

 柔らかな風が、私の髪を撫でて、教室を吹き抜けた。
 私は腕に顔を埋めて、静かに瞼を閉じる。

 ――――気づかないで。
 私はだれよりも、きみを深く愛している。
 だから、お願いだ。
 この想いには、気づかないで。

「…好きだよ、

 私の声は、風とともに、溶けて消えた。



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up data 04/8/3