せまい部屋のなかで、ちいさなテーブルをはさんで向こう側に、聖は座り、じっと自分の手を見つめている。
 わたしはベッド脇に背をあずけ、いまさっき聞いた言葉を反芻して、叫び出したいような、笑いたいような奇妙な気分におちいった。
 重苦しい空気のなかで、時計の音だけが、おおきく響いていた。



不安



「それで?」

 自分の声が硬くこわばっていることに気づいても、どうにもできなかった。
 胃の奥が、ぎりぎり痛んで、重くて、くるしい。
 目の前で聖が、沈んだ顔でうつむいている。
 なんであんたがそんな顔をするの。

「だから、…別れたほうがいいんじゃ、ないかって」
「なんで?」

 聖はすこし黙り込んで、きれいな顔をかすかにゆがめた。
 泣きそうな顔。ねえ、泣きたいのはこっちだよ。

は、きっと、私なんかといるよりもっと、」
「なんか? なんかってなに。聖はなんか≠チて言うようなやつなの? あんた自分のことそんなふうに思ってるの?」
「…、聞いて」
「イヤ。ねえ、なに? なに急に。いきなりわたしのこと避けはじめたと思ったらそれ? 別れ話にしてもさ、そんな陳腐なセリフで納得できると本気で思ってる? ばかじゃないの。わたしそんなに安っぽい?」
…」

 きれいな目が、揺れている。
 青みがかった瞳。わたしはこの目が好きだ。
 目だけじゃない。くちびるも髪も鼻も耳も手も声も、聖を構成するものすべてがわたしは好きだ。
 それなのに、なに。

「ほんとうのこと聞かせて。それ以外いらない」
「……私は、」

 ためらうように数秒黙って、聖は言った。

「ねえ、はきっと、男も好きになれるよ。私より面倒くさくない、束縛しなくて、でも大切にしてくれるひとが」
「―――」
を、傷つけずにいてくれるひとが」
「だから、別れるって? そんな、会ったこともない男に、聖、ゆずるんだ。わたしを、ゆずるんだ。さあどうぞ、愛してやってください、って? わたし、犬猫じゃないよ。好きなひとは自分で決める」

「ばかなこと言ってるって、自分でわかってる? わかってるよね。じゃなきゃあんたほんとにばかだよ。心底ばかで、愚かで、救えない」
「だけど、」
「だけど、だけど、だけど。ねえ、だけど、なに。結局、わたしを失いたくないだけじゃない」

 聖は目を見開き、くるしげに顔をゆがめてまたうつむいた。
 だから、なんで、あんたがそんな顔を。

「わたしに捨てられるのが怖くて、だから、捨てられる前に捨てようって思ったんだ」
「…ちがう」
「わたしが消えるのがいやだから、じゃあ、自分が消えようって思ったんだ。わたしがもう、あんたと付き合えないって言い出す前に。わたしがいつか、将来のこととか重くなって、耐え切れなくなって、別れようって言う前に」
「ちがう、私はッ」
「許さないから!」

 テーブルも押しのけて、息を呑む聖を押し倒す。
 馬乗りになって胸倉を掴んで、叫んだ。

「許さないから。あんたひとりで逃げようなんて、そんなのぜったい許さない! 重いもの背負ってるの、聖ひとりだと思ってる? 不安なの、怖いの、あんただけだって!? ふざけないでよ!」

 目の奥が熱い。胃が、痛い。ぎりぎり、締めつけられる。
 吐いてしまいそうな、くるしさ。いつもどこかにかかえてる。でもふだんは、気づかないようにしてるもの。
 目尻から、ぬるいなみだがこぼれ落ちて、聖の頬に落ちる。
 聖は瞠目したまま、わたしを凝視している。
 くちびるがふるえてなにか言おうとしたけれど、腹が立ったからキスでふさいでやった。

「―――許さないから」

 顔を離して、吐息のかかる距離で言った。

「聖がわたしを嫌いになったらあきらめる。それはもう、しょうがないって、泣くけど、あきらめる。でもそんな理由じゃだめ。うそつくにしても、もっとましなうそついて」
「…でも、。だめなんだ。私、だめなんだよ」
「聖がだめなのなんてとっくに知ってる。いつも独占したいって思ってるでしょ。だれかに笑いかけるのや話しかけるのにすら嫉妬してる」

 間近にある聖の瞳がふるえた。
 どうして知っているの、って顔に、すこし笑った。
 わかるよ、そんなの。

「でもね、あんたがたとえば、一回や二回、それ以上、独占欲とか丸出しにしたって、わたしそんなの怖くない。何度でもぶつかって、あんたがまちがったほうに行こうとしたら、無理やりでも方向転換させてやる。それに、こっちには強力な助っ人がいるんだから」
「助っ人…?」
「蓉子さまとか、江利子さまとか」

 あと、祐巳ちゃん、ってつづけると、聖はちょっと情けない顔をした。

「聖が、むかしどれだけ弱かったか知らないけど、いまはそれくらい、平気でしょ」
「…わからない」
「わたしはわかる。聖はもう、平気。大丈夫。すこしくらい傷ついたって、また立ち直れる。もとにもどれないぐらい壊れることなんて、ぜったいない」
「でも、は、」
「傷つくのなんて、そんなのがなんだっていうの」
「…だけど私、傷つけたくない」
「一緒にいられないよりも?」
「え」

 聖の頬を撫でてから、もう一度、今度は愛情もこめてキスをした。

「わたし、傷つくのは平気。傷つけるのも、できるだけしないけど、でも、ちょっとくらいなら大丈夫って思う。一緒にいられないほうがイヤ」
「……」
「ねえ、だめ? どうしても一緒にいないほうがいい? ほんとに、傷つける不安にくらべたら、そっちのほうがましなの? わたしやだよ。ぜったい、イヤ」

 聖はすこしだけ、女々しくためらって、腕を伸ばしてきた。
 わたしの首に白いそれを絡めて、引き寄せる。
 三度目は、甘かった。

「…いいの、ほんとに」
「いまの関係が、答えにならない?」
「……なる、ね」
「わかりきったこと、もう聞かないでよ」
「うん」
「ほんと、イヤなんだから。すごい、やな汗かいた」
「うん、ごめん」
「もうさ、女同士とか、聖がどうとか、それもぜんぶ、大昔にわかってたんだから」
「うん」
「今度怖くなったら、ちゃんと言って。いきなり別れるって、なにそれ、って思うから」
「うん。さすがに押し倒されるとは思わなかった」
「つぎは絞め殺す」
「怖いなぁ」

 くすくすと、いつもの顔で聖は笑った。
 わたしも笑いながら、聖を力いっぱい抱きしめた。

 愛し合うための覚悟なら、とうに決めていた。



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up data 06/07/02
押しつぶされそうなひとと、
立ち向かおうとするひと。