とまどい



 西日が窓から差し込んできたことに気づいて、私は立ち上がった。
 カーテンに手を掛けながら、光りの眩しさに目を細める。
「もう夕方だね。そろそろ、お開きにしようか」
 時計を見ると、四時すぎだった。カーテンを閉める。
 と勉強会をはじめたのが十二時。
 休憩時間を考えても、結構勉強したようだ。

 ひとりならはかどらないのに、なぜかと一緒だと、苦手な科目も頭に入ってくる。
 常に成績上位の様さま、ってところかな。

 ふと、後頭部に視線を感じて、私は肩越しに振り返った。
 部屋の真ん中の、小さなテーブルに肘をついている、と目が合う。
 は、にっこりと笑った。

「令の手って、好きだなぁ」

 私は首を傾げた。
「え、なに、いきなり…」
 戸惑う私に、はくすくすと笑いを漏らす。
「…からかっているの?」
 の向かい側に座りなおして、私が言った。
「ちがうって。いま、ほんとにそう思ったの。きれいだなぁ、って」
 手にあごを乗せて、が目元を和らげる。
 私は、頬が赤くなるのを感じた。

「そんなことないよ。剣道やっているから、手なんて骨ばっているし…」
「でも、やさしい」
 は私の手をそっと取ると、やさしい手つきで包み込んだ。
 小さくて柔らかい手。

 のほうこそ、きれいな手をしている。
 そう言うと、は静かに首を振った。

「ううん。私なんかより、令のほうがきれいよ。竹刀を握っている手も、料理をしている手も、編み物をする手も、すき」
 素直すぎる言葉に、私は頬を掻いた。
 の素直なところはいいと思うけど、こうストレートに言われると、すごく照れてしまう。
 は私の手を握ると、自分の頬に寄せた。
「やさしい手…この手がいつも、由乃ちゃんを守っているのね」
「――――え」

 どくん、と。
 鼓動が大きく鳴った。
 それは当たり前のことなのに。
 私は由乃を守るために、竹刀を握っているのに。
 なぜか、動揺した。

「あ、あの、…」
「だから、すきよ。この手」
 つづけられた言葉は、褒め言葉だ。
 わかっているのに、なぜか、心の奥が小さく痛んだ。

 なに、これ。

「令は由乃ちゃんを大切にしている。それがとても羨ましい」
「羨ましい…?」
「だれかをそんなに強く想えるのって、そう簡単にはできないから」
 憧れているのよ、とは言った。
「令は根っからの騎士さまね」
 くすくす。からかうような口調。

のことも守るよ」
 原因不明の焦りのような感情が、私を早口にさせた。
 は軽く目を見開くと、苦笑いをする。
「…ありがと」
 一瞬、垣間見えた苦しそうな表情が、心に突き刺さる。

 なんだろう。
 どうして、そんな顔をするのか。

「そろそろ、帰らなきゃ」
「ぁ…」
 すっと手を離されて、私はつづける言葉を見失った。
 熱が冷めていく。
「今日はありがとうね。令と一緒だと、勉強がはかどるよ」
「え、ううん…私のほうこそ」
 手早く荷物を片付けて、は立ち上がった。

 バス停まで見送ろうと腰を浮かしかけた私を、は手で制する。
「いいよ。ひとりで帰れるから」
「でも…じゃあ、玄関まで」
「へーきへーき。じゃあね」
 ひらひらと手を振って、はくるりと背を向けた。
「あっ、…!」
「令」
 ドアノブに手をかけた体制のまま、は言った。
「令はやっぱり、騎士さまだよね。みんなを守るヒーロー。…でも、」
…?」

 は私に背を向けたまま。
 だから、彼女がどんな顔をしているのか、私にはわからなかった。

「ときどき、そのヒーローを独り占めしたくなるの」

 ―――息を呑んだ。
 は、肩越しに私を振り向く。
 苦笑いのような、泣き笑いのような、そんな歪んだ顔。
「ごきげんよう。また明日ね、騎士さま」
 ふっと、最後はいつもの、私をからかうときの微笑。
「待っ――――」
 伸ばした手は空を切り、は部屋を出て行った。

 部屋が人ひとりを失い、静寂が折降りる。
 奇妙な脱力感が、私を襲った。
 浮かしかけていた腰をおろし、深く息をつく。
…」
 あの言葉の意味を、私は理解できずにいた。

 そっと、胸に手を当ててみる。
 いつもより早い鼓動。
 の触れていた手。
 あの柔らかい感触を思い出し、顔が熱くなった。

 なんだろう、これは。
 私はいったい、どうしたんだろう。

 わけのわからない焦燥感と戸惑いに、私は混乱するばかりだった。



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up data 04/8/13