おもしろいひと



 それは案外容易いものだ。
 フェンスを越えて、あとは一歩踏み出せばいい。
 なんて容易い。


「なにしてるの?」
 背後から声が掛かった。
 肩越しに振り返る。
「ごきげんよう、江利子さん」
 薄く笑って、クラスメイトの名を呼ぶ。
 彼女は私のほうへすたすたと近寄ると、フェンスに寄りかかって、私の顔を覗き込んだ。
さん、飛び降りるの?」
 平然と問う。

 面白い人。
 自然と口元に笑みが浮かんだ。
「さあ、どう思う?」
「まあ、屋上のフェンス越えてぼんやりしている人を見れば、だいたいは自殺かなって思うけど」
「じゃあそれでいいや」
「ふーん」
 江利子さんは頬杖をついて、私を見つめた。
 いつ飛び降りるのか、観察するつもりだろうか。

「面白いね」
「なにが?」
 風に吹かれ、乱れた髪を押さえながら江利子さんが振り向く。
「ふつう止めるでしょ」
 目を瞬かせ、江利子さんは首をかしげた。
「止めてほしいの?」
「別に。止められる理由ない」
「私も。止める理由ない」
 私たちは互いを見合わせ、薄く笑った。

 もう少し話がしたい。
 唐突に、彼女に興味が沸いた。
「ねえ、江利子さん。どうしてここに来たの?」
 いま、授業中だと思うんだけど。
「だって、予鈴が鳴ってもさんが教室に帰ってこなかったから」
「私を探していたの?」
 うん。と、江利子さんはうなずいた。
「どうして?」

 風が吹く。
 身体を軽く煽られ、一瞬バランスが崩れた。
 落ちるかな、と思ったけど、落ちなかった。
 江利子さんが話をつづける。

「今日提出の課題、あなただけまだなのよ」
 私はきょとんとして、江利子さんを見た。
「それだけ?」
「それだけ」
 あっさりとうなずく江利子さんに、私は思わず噴出す。
「それなら休み時間、声かければよかったのに」
「偶然居なかったのよ」
「あーそう」

 疑問に思った。
 彼女は一見して優等生だけど、ここまできっちりしていない。
 むしろそれは蓉子さんのほうだろう。
 江利子さんの場合、適当に力を抜く方法を知っている。
 だから、いまのは嘘だ。
 じゃあ、なぜ?

「で、本当のところはどうなの?」
 江利子さんは私を一瞥すると、挑発的な笑みを浮かべた。
「さあ?」
 自分で考えろ、ということか。
 簡単に答えはくれそうにない。

「飛び降りないの?」
 江利子さんの問いに、私は笑って、
「やめた」
 フェンスを越えて、戻った。
「どうして?」
 階段のほうへ向かいながら、江利子さんの問いに答える。
「江利子さんに興味が沸いたから」
「ふぅん?」
「しばらくはあなたを観察してみることにする」

 この人は興味深い。
 少なくとも、私の僅かな好奇心を刺激した、たったひとりの人だ。
 面白い人。
 もうしばらく様子を見てみよう。
 死ぬのはそれからでもいい。

「…私もさんのこと、面白いと思ったわ」
「へえ?」
 江利子さんが私の前で立ち止まって、振り返った。

「私をあんなに動揺させた人、あなたが初めて」

 微笑して、先に階段のほうへ行ってしまった。
 私は一瞬足を止め、その言葉の意味を考える。
 ふっと、笑みがこぼれた。
 足を速め、江利子さんを追う。

「ねえ、江利子さん。私を追いかけてきた理由って、もしかして―――」
 タンタン、と階段を下りながら、彼女に訪ねた。
「私のことが好きだから?」
 江利子さんは私を振り向くと、さっきと同じ、挑発的な笑みを見せた。

「さあ?」

 やっぱり彼女は面白い。



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up data 04/9/10