特別でないただの一日、でない一日 8



「どこに行ってたの?」
「教室のほうへ、忘れ物を取りに」
 言って、静さんは私の手元を見やる。
「本を返しに来てくださったんですか?」
「ああ、うん。約束だから」
 静さんは小さく笑った。
「三学期でもよかったんですよ?」
「でも、一度約束したことだから」

 私の答えに、静さんは穏やかに目を細める。
「そうですか…。それで、どうでした?」
「面白かったよ、すごく。これ、つづきある?」
「はい、こっちです」
 静さんは私の本をカウンターに置くと、陳列した棚の奥のほうへ私を案内した。

 たしかここに、と並んだ本の背表紙をなぞりながら、視線を動かす。
 私は静さんの背中を目で追いながら、半ば無意識にため息をついた。
 聞こえてしまったのか、静さんが振り向く。
「どうしたんですか? お疲れのようですね」
「え、ああ…なんか、さっき立て続けに薔薇ファミリーに、クリスマスのお誘いがあってね」
 それで、ちょっと。―――私が苦笑しながら肩を竦めると、静さんは、じっと私を見つめ、それで、と訊ねてきた。

「え?」
「どう答えたんですか?」
 問いながら、私に一冊の本を差し出す。
 それを受け取りながら、私は軽く笑った。
「逃げちゃった」
 意外そうに、目を見開く静さん。

「逃げたんですか?」
「悪いとは思ったんだけどね。気迫とか勢いに圧されちゃって、さ」
 ああ、と静さんは笑った。
さま、苦手ですからね。そういう空気」
「あはは…うん。あとで謝らなきゃなぁ」

 ぽりぽりと頬を掻きながら、笑い返す。
 静さんはふと笑みを消して、思案するように足元に目を落とした。
 ふしぎに思いながらそれを見ていると、静さんは顔を上げ、私を見つめる。
「それじゃあ、」
 え、なにその繋ぎ方。まさか。
「私に付き合ってもらえませんか?」
 し、静さんもぉ?

 私は半ば諦めの境地に立たされた。
「で…静さんは、なんの用事?」
「クリスマスイブということで、幼稚舎のほうから、子どもたちに歌をプレゼントしてほしい、と頼まれているんです」
「へぇ?」
 歌。歌…歌?

 もしかして、と思いながら、私は訊き返す。
「そ、それで?」
 静さんは、そのまさかです≠ニいうような表情で、にっこり笑った。
さまに、伴奏をしてもらおうかと」
 やっぱりぃ…!

 私はその場に膝を折って崩れた。
 うぅ…このあいだ、ピアノが弾けるなんて話をしちゃったのが間違いだったんだぁ…。
「で、でも私、そんなにうまくないよ?」
「いいんですよ。音楽は、心がこもっていれば。それに、私もさまのピアノ、聴いてみたいんです」
 美人にそう微笑まれては、私はもうそれ以上なにも言えなかった。

「それとも、」
 俯いた私の上に、静さんのきれいな声が、どこか不安そうな色を滲ませ、降ってくる。
「ほかに、だれか過ごしたい人がいるんですか?」
 その問いに、私は顔を上げた。


「いないよ、そんな人」
「ごめん、ほんとうは」



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up data 04/12/24